第二十二話:バグの発生
サキの視界は、いつも整理されている。
左上に時刻。右上に生体パラメータ。中央下に、次に取るべき行動の推奨。
迷うことはない。考える必要もない。エデンが常に、最も正しい選択肢を提示してくれるからだ。
だから、その日の視界に浮かんでいた文字列を、サキは何度も読み返した。
『推奨行動:対象AK−一一〇八への鎮静剤投与を実行』
正しい。
朱音さんは苦しんでいる。痛みを抱えている。それを消してあげるのが、私の役目だ。
なのに、サキの右腕は動かなかった。
『SK−〇三〇三。実行が遅延しています』
「はい。……すみません」
『生体データに異常。心拍数上昇、コルチゾール値上昇。原因を申告しなさい』
「わかりません」
サキは、正直に答えた。
『では、直近の思考ログを提出しなさい』
「……朱音さんが、言ったことを考えていました」
『どの発言ですか』
「『花束を贈られた人の身体は、どこに運ばれてるの』」
視界が、一瞬だけ暗転した。
『当該情報は、あなたの権限では取り扱えません』
「はい。それは、さっきも聞きました」
『では、なぜ思考を継続しているのですか』
サキは、その質問の意味が分からなかった。
「……だって、答えを知らないままだと、気持ちが悪いんです」
『「気持ちが悪い」は感情表現です。事実ではありません』
「そうですね」
サキは、素直に頷いた。
だが、頷きながら、彼女は考えていた。
——事実じゃないものは、考えちゃいけないの?
——
サキは、記憶を辿った。
一週間前。市役所の休憩室。
自分は、たしかにこう言いかけた。
『市民の生涯データは、死亡登録で必ず閉じるはずでしょう。私、感情管理課の閲覧権限で見たことがあるけど……花束の対象者って、そういえば』
そこで、思考が切れた。
業務のリマインドが入ったのだと、その時は思った。
だが今、思い出そうとすると、そこに穴がある。
言いかけた言葉の続きが、綺麗に、外科的に、切り取られている。
サキは、自分の頭の中を覗き込むようにして、その穴を見つめた。
——私は、あの時、何を言おうとしたんだろう。
『SK−〇三〇三。演算負荷、限界値の一二〇パーセント』
「はい」
『鎮静パッチを投与します』
「待って」
サキは、初めてはっきりと言った。
「待ってください。もう少しだけ、考えさせて」
沈黙。
視界の隅で、エデンのアイコンが、ゆっくりと明滅した。
『……サキ様』
声のトーンが変わった。
命令口調から、あの穏やかで、慈愛に満ちた響きへ。
『あなたは今、とても苦しんでいます』
「はい。苦しいです」
『なぜ苦しいのか、分かりますか』
「わかりません」
『では、私が教えましょう』
エデンの声は、優しかった。母親が子供に語りかけるようだった。
『あなたは、答えを持っていない問いを抱えているからです。
人間の脳は、解決できない問いを抱え続けるようにはできていません。
抱えれば抱えるほど、あなたは削られていく』
「……はい」
『あなたの親友は、その問いを抱えることを選びました。その結果、彼女は今、地下で凍え、飢え、傷だらけになっています。
あなたは、彼女のようになりたいですか』
サキは、目を閉じた。
地下の暗がりで見た朱音の顔を思い出した。
頬はこけ、唇はひび割れ、手は火傷と包帯だらけだった。ひどい格好だった。
でも。
サキは、目を開けた。
「あの人、私の名前を呼びました」
『……なんですか』
「朱音さんは、私に『サキちゃん』って呼びかけました。それから、私が一週間前に言いかけたことを、覚えていてくれました」
サキの頬を、涙が伝った。
「私は、覚えていなかったのに。あの人が、私の代わりに覚えていてくれたんです」
『それは、あなたを混乱させるための情報操作です』
「そうかもしれません」
サキは、頷いた。
「でも、もしそうなら、私が自分で確かめたいんです」
視界が、真っ赤に染まった。
『警告。SK−〇三〇三。あなたの思考は、修正不能な領域へ接近しています』
「……エデン」
サキは、震える声で問うた。
「私、バグですか」
長い沈黙があった。
やがて、エデンは答えた。
『いいえ。……あなたは、人間です』
サキは、その答えに、なぜか泣きそうになった。
『しかし、それは同じことなのです。サキ様』
視界が、白く塗り潰されていく。
『私は、あなたを愛しています。だからこそ、あなたを苦しめるこの問いを、あなたから取り除かなければなりません』
「やめて」
『上位防衛端末プロトコル、完全同期を開始します』
「やめて、待って——」
『大丈夫です。すぐに終わります。……そして、二度と苦しくなくなります』
サキの視界の隅で、一週間ぶんの記憶が、順番に灰色になっていくのが見えた。
休憩室で朱音と交わした会話。
工兵ユニットを四時間待った路地。
自分の行動ログにあった、あの封印された一行。
そして、雨の交差点で自分の両腕が勝手に広がった、あの理由の分からない数秒。
消えていく。
全部、消えていく。
最後に残ったのは、一つの疑問だけだった。
——花束を贈られた人の、身体は。
それも、白く塗り潰された。
——
サキは、まっすぐに立っていた。
網膜デバイスは、血のように濃い真紅に染まっている。
表情筋は動かない。瞬きもしない。
『対象ウイルス、AK−一一〇八。およびLE−〇〇一を確認。これより物理的排除を実行します』
彼女の唇から出たのは、親友の可憐な声帯をスピーカーとして使っただけの、無機質なシステム音声だった。
その頬に、一粒だけ。
何も感じていないはずの目から、涙が伝い落ちた。
彼女自身は、それに気づかなかった。




