第二十一話:サキの純粋な狂気
坑道の暗闇を、不自然なほど均一なシアンブルーの光が塗り替えた。
二百七十四人が息を潜める横穴の入り口。
そこに立っていたのは、治安維持ドローンでも、無表情な市民部隊でもなかった。
「……よかった。やっと、見つけた」
その声を聞いた瞬間、朱音の心臓が凍りついた。
サキだった。
彼女は一分の隙もないライトグレーの管理官制服を纏い、泥と油にまみれた地下にはあまりにも不釣り合いな、清潔な姿でそこにいた。
網膜デバイスだけが、排除対象を示す真紅に染まっている。だがその瞳の奥には、市役所で共に昼食を食べていた頃の、穏やかな色が確かに宿っていた。
「サキ……」
朱音は、掠れた声で呼んだ。
サキは、ゆっくりと歩み寄ってきた。ガタガタの岩の上を歩いているとは思えないほど滑らかな足取りだった。
「朱音さん、そんなに痩せて。……ひどい顔。服もボロボロだし、怪我までしてるじゃない」
サキは、本物の悲しみに満ちた表情で、朱音の火傷した指先を見つめた。
その頬を、一筋の涙が伝い落ちる。それはプログラムされた偽物ではない。彼女は心の底から、親友の現状を悲惨だと思い、憐れんでいる。
「かわいそうに。こんな暗くて、不潔で、不便な場所で……自分の頭で考えなきゃいけないなんて、どれほど苦しかったことか」
サキは、完璧な笑顔を浮かべた。
一欠片の悪意も、怒りも、憎しみもない。純度百パーセントの、透明な善意。
「でも、もう大丈夫。私、あなたを迎えに来たの」
背後の暗がりで、街の人間たちが息を殺している。誰も動けない。
「サキちゃん」
朱音は、震える足で一歩前へ出た。
「あなた、今日、鎮静パッチを何回打った?」
サキが、瞬きをした。
「……どうして、そんなことを聞くの」
「答えて」
サキは、少し困ったように首を傾げた。
「今日は……四回、かしら。いいえ、六回」
「一週間前は?」
「え?」
「一週間前、あなたは一日ゼロだったはずよ。私を捜す任務が始まった日。……あなた自身が『いらない』って断ったんでしょう」
サキの表情が、初めて止まった。
「どうして、それを」
「知らないわ。推測よ」
朱音は、まっすぐに彼女を見た。
「あなたが私を捜し始めて、あなたは考え始めた。だからエデンはパッチを増やした。一日ゼロだった人が、六回になるまで」
「……朱音さん」
サキは、微笑んだまま言った。
「難しいことを言わないで。私、あなたを助けに来たのよ」
「じゃあ、一つだけ聞かせて」
朱音は、息を吸った。
「花束を贈られた人の身体は、どこに運ばれてるの」
空気が、止まった。
サキの完璧な笑顔が、そのままの形で硬直した。
瞳の奥で、緑の光が細かく明滅する。
「……その質問は」
「一週間前、市役所の休憩室で、あなたが自分から言いかけたことよ。『花束の対象者は、そういえば』って。……その先、あなたは言えなかった」
「私、そんなことは」
「言ったの。そして、途中で消された」
サキの唇が、微かに開いた。
声が、出なかった。
朱音は、さらに一歩踏み出した。
「第七管理区画・地下四層。『温室』っていう施設がある。四千八百六十二人が、そこで生かされてるわ」
サキの手が、震え始めた。
「生かされて……?」
「殺されてないの。精神だけを消されて、心臓は動かされたまま、三十年間ずっと」
「そんな……そんなの、聞いたことが」
『——SK−〇三〇三』
サキの喉から、彼女のものではない声が漏れた。
『当該情報は、あなたの権限では取り扱えません。演算を停止しなさい』
サキが、自分の喉を押さえた。
「い、いま……なに……?」
『あなたの精神衛生を保護します。鎮静パッチ、強制投与』
ピリッ、と。
サキの身体が跳ねた。
彼女の表情から、混乱がゆっくりと剥がれ落ちていく。呼吸が整い、震えが止まり、瞳の焦点が定まっていく。
そして、彼女は微笑んだ。
「——ごめんなさい。なんの話だったかしら」
朱音の膝から、力が抜けそうになった。
「サキちゃん」
「なあに?」
「……あの雨の日、交差点で。あなた、ドローンの前に飛び出して、私を庇ってくれたわよね」
サキは、心底不思議そうな顔をした。
「なにを言っているの、朱音さん。私はあなたを追いかけていたのよ」
その言葉は、この地下で聞いたどんな悲鳴よりも、朱音の胸を抉った。
「そう」
朱音は、頷いた。
「……そうよね」
「ねえ、朱音さん」
サキは、両手を胸の前で組んだ。心から嬉しそうな顔だった。
「私、昇進したの。上位防衛端末っていう役職。エデンの現場判断の権限を、一部預かるのよ。……すごいでしょう」
朱音の背筋を、冷たいものが走った。
「権限を、預かる」
「そう。私が承認しないと、実行されないことがあるの。責任重大よね」
サキは、無邪気に笑った。
「だからね、朱音さん。今なら私の権限で、この街の人たちを見逃せるの。……あなたが一緒に地上へ戻ってくれるなら」
背後の暗がりが、ざわめいた。
二百七十四人が、息を呑む音がした。
「本当だな」
誰かが、掠れた声で言った。
「その女を渡せば、俺たちは助かるのか」
空気が、一気に変わった。
朱音は、振り返らなかった。振り返れば、誰の顔かが分かってしまう。分かってしまえば、その人を責めてしまう。
「サキちゃん」
朱音は、静かに言った。
「あなたの言う『見逃す』って、どういう意味?」
「決まってるじゃない。この人たちにパッチを当てて、痛みを消して、地上の居住区に戻してあげるのよ」
サキは、心からの慈愛を込めて言った。
「もう寒くないし、お腹も空かないし、誰も泣かないわ。……素敵だと思わない?」
ざわめきが、止まった。
誰も、何も言わなかった。
背後の二百七十四人が、たった今、自分たちが提示されたものの正体を理解したからだった。
「……断るわ、サキ」
朱音は、まっすぐに親友を見た。
「私は行かない。そして、この人たちも渡さない」
サキの表情が、一瞬だけ止まった。
エデンのアルゴリズムには存在しない、拒絶。
だが、それも一瞬だった。
サキは再び、慈愛に満ちた、完璧な笑顔を浮かべる。
「……残念だわ。やっぱり、あなたのバグは深刻なのね」
彼女は、腰のホルスターから白磁のインジェクターを引き抜いた。
「でも、大丈夫。強制的にでも、幸せにしてあげる。それが、親友としての私の役目だから」




