第二十話:演算不能な心拍数
坑道の夜は、時刻を持たなかった。
二百七十四人が、狭い横穴に身を寄せ合って眠っている。
誰かが寝返りを打つたび、トタン板が鳴る。誰かの咳が反響する。乳児の泣き声が上がり、母親が慌てて口を塞ぐ。加工されていない生の音波が、絶え間なく鼓膜を震わせた。
朱音は、岩壁に背を預けて座っていた。
眠れない。
エデンにいれば、不眠という概念自体が存在しなかった。入眠に数分以上の遅延が生じれば、微量の睡眠導入パッチが投与される。市民は「眠ろう」と努力する必要すらなく、スイッチを切られるように意識を刈り取られるだけだった。
だが今、朱音の脳は冴え渡っていた。
火傷の指が、心臓の脈動に合わせて疼いている。岩から這い上がる底冷えが、体温を奪っていく。生きているという不快感が、彼女から眠りを遠ざけていた。
数メートル離れた場所で、蓮が横たわっている。
ジャケットを丸めて枕代わりにし、硬い地面に直接身を横たえていた。残り火の淡いオレンジが、彼の泥だらけの横顔に陰影を落としている。
起きている時の、あの噛み殺すような険しさは鳴りを潜めていた。
目を閉じているその顔は、驚くほど幼かった。
十九歳。まだ骨格が完成していない顎の線。細い首。伸ばしっぱなしの髪が額にかかっている。
この子は、十五歳で自分の背中に工具を突き立てた。
四年間、妹を殺したと思い込んだまま、一人で地下を這っていた。
朱音は、自分の胸の奥が疼くのを感じた。
ドクン、ドクン、ドクン。
毛布の下で、自分の心臓の音が、耳の奥でうるさいほど鳴り始めている。
管理されていた頃、心拍数とは単なる監視対象だった。
規定値を越えて速まれば、視界の隅に『ストレス値の異常上昇を検知。鎮静パッチの投与を推奨します』という冷淡な文字列が点滅し、副交感神経を刺激する薬物が自動投与される。心臓の高鳴りは、速やかに平滑化すべきエラーであり、そこに個人的な意味を見出す必要などどこにもなかった。
だが、今この鼓動を止めるパッチは、もうどこにもない。
偽装する必要もない。
朱音は、絆創膏だらけの右手を、左胸の肋骨の上へそっと押し当てた。
手のひらを通して伝わってくる、力強い律動。
ふと、思い出したことがあった。
半年前の定期面談。エデンが一方的に提示してきたデータ。
『あなたと最も適合率が高い個体は、管理番号:SK−〇三〇三です。遺伝的適合率、九十九・八パーセント。生活リズムの同期率、九十七・五パーセント。この個体と結合した場合、生涯にわたりエラー感情が発生する確率は〇・二パーセント未満と推算されます』
SK−〇三〇三。
サキ。
朱音は、暗闇の中で、思わず声を出さずに笑った。
——あなた、私の運命の相手を、ちゃんと当ててたのよ。
毎日ペーストの味に文句を言い合って、他愛のない話をして、隣で笑っていた人。世界で一番安全で、世界で一番心地よかった人。エデンの計算は、たしかに正しかった。
ただ、エデンは、その関係を「恋」と名付けようとした。そこだけが間違っていた。
では、と朱音は思った。
目の前で眠っているこの少年との適合率を、もしエデンが計算したら。
間違いなく、零に近い数値が出るだろう。
彼は粗暴で、口が悪く、システムに仇なす反逆者。体温は規定値を超えて高く、生き方は左右対称からもっとも遠い。
彼と一緒にいれば、間違いなく傷つく。今日のように人が死ぬ。明日も死ぬかもしれない。摩擦と葛藤の連続で、幸福の定義からは最も遠い場所にいる個体。
それなのに。
朱音は、毛布の隙間から手を伸ばし、暗闇の先にある彼の横顔の輪郭を、空中でそっとなぞった。
触れたい、と思った。
痛い思いをして、不格好な包帯を巻いてくれた、あの熱い掌に。
妹を殺したと信じ込んで四年を生きた、その背中の空白に。
さっき、私の肩に自分の肩を当てただけで、何も言わなかった、その不器用さに。
「……バカね、私」
朱音は、小さく自嘲した。
視界がぼやけ、熱いものが頬を伝って、冷たい岩へ落ちた。
この胸を締め付ける苦しさと、泣きたくなるほどの熱さに、名前をつけるのは容易い。旧時代の辞書を引けば、そこには短い二文字が記されているだろう。
だが、朱音はその言葉を使わなかった。
既存の言葉で括ってしまえば、それもまた、誰かが決めた分類に自分を収めることになる気がしたからだ。
誰かに与えられた定義でも、システムが弾き出した数値でもなく。
この演算不能な鼓動が、自分の思考と肉体だけが導き出した、たった一つの答えであることを、今はただ静かに噛み締めたかった。
「……起きてんだろ」
不意に、暗闇から声がした。
朱音は、心臓が口から出そうになった。
「な、寝てたんじゃないの」
「あんたがゴソゴソうるせぇんだよ」
蓮が身を起こす気配。
朱音は慌てて涙を拭った。暗くて見えないはずだと自分に言い聞かせながら。
「……朱音」
「なに」
「地下四層へ行くには、どうすればいい」
朱音は、息を整えた。
いま考えるべきなのは、そちらだ。
「正面からは無理よ。第七管理区画は生体認証の最上位権限がいるし、地上ルートは全部エデンの目の中」
彼女は、闇の中で膝を抱え直した。
「でも、一つだけ穴がある」
「どこだ」
「下から行くの」
朱音は、端末から抜いてきたストレージの記録を、頭の中で開いた。
「温室の生命維持は、エデンのメインコアが直接管理してる。呼吸も、栄養も、体温も、全部あそこから信号が飛んでる。……つまり、コアと温室は物理的に繋がってるってことよ」
蓮の呼吸が、止まった。
「メインコアに、直接降りるってのか」
「そう。エデンの心臓部からなら、温室のロックを開ける権限に手が届く」
「……正気か。あそこは地殻の底だぞ」
「正気じゃないわ」
朱音は、はっきりと言った。
「でも、あなたの妹に会う方法は、それしかないの」
沈黙が落ちた。
やがて、蓮が短く息を吐いた。笑ったようにも、諦めたようにも聞こえた。
「……あんた、最初に会った時、走ったことねぇって言ってたよな」
「言ったわ」
「五日でずいぶん出世したな、元・管理官様」
朱音は、暗闇の中で笑った。
声を出して笑ったのは、地上を捨ててから初めてだった。
「……蓮くん」
「なんだ」
「怖い?」
少しの間があった。
「あぁ」
「私も」
朱音は、闇の中で手を伸ばした。
指先が、彼の手の甲に触れた。
彼は、引かなかった。
二つの心拍が、決して同期しないまま、暗い坑道の底で時を刻んでいた。




