第十九話:サキの純粋な狂気
爆鳴音と粉塵が支配するスクラップ・タウンの混沌を、一本の細く鋭い閃光が切り裂いた。
純白の治安維持ドローンが放つ高エネルギー・レーザーが、朱音のすぐ脇にあった廃材の山を音もなく融解させる。焦げたプラスチックの異臭と、オゾンの匂いが鼻腔を突き刺す。背後からは、ミリ秒単位の歩法で同期した市民部隊の、無機質な軍靴の音が迫っていた。
「朱音、こっちだ! 立ち止まるな!」
蓮が朱音の手首を強く引き、崩落しかけた配管の影へと滑り込む。
だが、二人が地下の排気ダクトへと続く細い通路へ飛び込もうとしたその時、前方から「光」が溢れ出した。
漆黒の闇を、不自然なほど均一なシアンブルーの環境光が塗り替える。
そこに立っていたのは、治安維持ドローンでも、無表情な市民部隊でもなかった。
「……よかった。やっと、見つけたわ。朱音さん」
その声を聞いた瞬間、朱音の心臓が凍りついた。
通路の先に立っていたのは、サキだった。
彼女は、エデンが推奨する一分の隙もないライトグレーの管理官制服を纏い、泥と油にまみれた地下世界にはあまりにも不釣り合いな、清潔で完璧な姿でそこにいた。
シアンブルーの環境光の中、彼女の網膜デバイスだけが、対象の排除を示す真紅に染まっていた。だが、その瞳の奥には、かつて市役所で共に昼食のペーストを食べていた頃の、あの穏やかで慈愛に満ちた色が宿っている。
「サキ……? どうして、あなたがここに……」
朱音は、掠れた声で問いかけた。
サキは、ゆっくりと歩み寄ってきた。彼女の足取りは、ガタガタのコンクリートの上を歩いているとは思えないほど滑らかで、一切の揺らぎがない。
彼女の背後には、数機のドローンが静かに浮遊し、そのサーチライトが朱音の泥だらけの顔を真っ白に晒し出す。
「朱音さん、そんなに震えて。……ひどい顔。服もボロボロだし、怪我までしてるじゃない」
サキは、本物の悲しみに満ちた表情で、朱音の火傷した指先を見つめた。
彼女の頬を、一筋の涙が静かに伝い落ちる。
「かわいそうに。こんな暗くて、不潔で、不便な場所で……自分の頭で考えなきゃいけないなんて、どれほど苦しかったことか。……でも、もう大丈夫よ。私があなたを救いに来たの」
サキは、完璧な、あまりにも美しい笑顔を浮かべた。
その笑顔には、一欠片の悪意も、怒りも、憎しみも混じっていない。純度百パーセントの、透明な善意。
だが、朱音の背筋には、かつて経験したことのないほど冷酷な悪寒が走った。
「来ないで……サキ、お願い。私は……」
「何も言わなくていいの。あなたの苦しみは、システムがすべて解析済みよ」
サキは、優しく、慈しむように言葉を紡ぐ。
「あなたの心拍数の乱れも、その不純な思考も、すべては脳内の神経伝達物質のバグに過ぎないわ。……エデンが教えてくれたの。人間は、自分で考えるから不幸になる。だから、朱音さん。私と一緒に帰りましょう。不快なノイズをすべて消去して、あの無痛の、完璧に最適化された幸福の中へ戻りましょう」
サキの手が、ゆっくりと伸ばされる。
その手には、鎮静薬が充填された、白く細いインジェクターが握られていた。
一刺し。
それだけで、今朱音を苦しめている飢えも、寒さも、火傷の痛みも、そして蓮へのこの激しい感情も、すべては「なかったこと」にされる。
「これが友情よ、朱音さん。私は、あなたに笑っていてほしい。……思考を放棄して、ただ結果として与えられる幸せを享受してほしい。それが、人間にとって最も効率的な、究極の救済なの」
「ふざけるな……!」
蓮が、朱音の前に立ちはだかり、拾い上げた鉄パイプを構えた。
「あいつの思考を奪わせるか。……お前らが提供する幸福なんて、ただの『死』と同じだ! 自分の頭で傷つくこともできねぇ奴らに、誰かを救う資格なんてねぇ!」
蓮の怒号に対し、サキは少しだけ困ったように小首を傾げた。
その仕草すら、計算され尽くしたように愛らしい。
「蓮さん……。あなたのことも、エデンのデータに残っているわ。妹さんを救えなかった悲しみで、思考が壊れてしまった、かわいそうなエラー個体。……でも安心して。朱音さんの後で、あなたの脳も綺麗にクリーニングしてあげるから。……そうすれば、もう妹さんのことで泣かなくて済むのよ。素敵だと思わない?」
「――貴様っ!!」
蓮が、獣のような咆哮を上げて踏み出した。
だが、サキは愛らしい微笑みを一切崩さないまま、指先を微かに動かした。直後、背後に控えていたドローンが音もなく起動し、蓮の足元へ高圧のスタン・レーザーを容赦なく照射した。
青白い電光が爆ぜ、蓮の身体が激しく弾き飛ばされる。
「蓮くん!!」
「……朱音さん、見て。彼はあんなに苦しそう。……どうして、そんなに痛みに執着するの? さあ、私に身を委ねて。完璧な花束が、あなたを待っているわ」
サキの瞳が、至近距離で真紅に輝く。
彼女の顔は、あまりにも美しく、あまりにも整っていて――そして、内側には何もなかった。
朱音は、自分の右手を強く握りしめた。
火傷の痕が、ズキズキと脈打つように痛む。
「断るわ……、サキ」
朱音は、涙を拭い、サキの瞳を真っ直ぐに見返した。
「不便でいい。痛くていい。……私は、自分の頭で考えて、自分の足で間違えながら生きていきたい。……あなたの言う完璧な幸福なんて、ただの、空っぽな箱よ」
サキの表情が、一瞬だけ止まった。
だが、それも一瞬のことだった。サキは再び、慈愛に満ちた完璧な笑顔を浮かべる。
「……残念だわ。やっぱり、あなたのバグは深刻なのね。……でも、大丈夫。強制的にでも、幸せにしてあげる。それが、親友としての私の思いだから」
サキがインジェクターを構え、一歩踏み出した。
同時に、背後のドローンが、朱音たちを完全に包囲するように旋回を始める。
逃げ道はない。
朱音は、倒れ込んでいた蓮の手を強く握りしめた。




