第十九話:白い猟犬
純白の流線型が、粉塵を切り裂いて降りてきた。
エデンが誇る自律型治安維持ユニット。通称『白い猟犬』。
漆黒の地下世界にはあまりにも不釣り合いな、その清潔さが、かえって見る者に生理的な嫌悪を抱かせる。
機体は無機質なサーチライトを撒き散らし、逃げ惑う人々を、排除すべきログとして次々にロックオンしていく。
「キャアアアアアッ!」
「東側だ! 東側から回れ!」
街は、一瞬にして地獄になった。
ドラム缶の焚き火が蹴散らされ、積み上げられた廃材の家々が、高エネルギー・レーザーによって音もなく焼き切られていく。
だが、朱音が最も恐怖を感じたのは、機械ではなかった。
天井の穴からロープを伝って降下してくる、人間たちの姿だった。
彼らはライトグレーの戦闘服を纏い、顔には一寸の表情も浮かべていない。
網膜デバイスが真紅に発光し、その動きは個人の意志を捨て去ったかのように、ミリ秒単位で同期している。
治安維持プロトコルを強制適用され、思考をエデンに明け渡した市民部隊。
その隊列の中に。
「……タケさん」
朱音の口から、その名前がこぼれた。
痩せた四十代の男が、隊列の三番目に立っていた。
配線の仕事をしていた無口な男。娘を肺の病で亡くした男。二日前、朱音に「あんたが持ってきたもんは何だ」と静かに問うた男。
その顔には、何もなかった。
網膜が赤く光り、口元は緩やかな弧を描いている。完璧な左右対称の、穏やかな笑顔。
「タケェェェッ!!」
広場の向こうで、ヒロが吠えた。
「てめぇ、なんで! なんで売った!」
タケは、ヒロを見た。
そして、心底不思議そうに首を傾げた。
「売る? ……私は、救われただけです」
その声には、憎悪も、後悔も、罪悪感もなかった。
「何日か前、上の通信端子に繋いで、エデンに聞いてもらったんです。私は毎晩、娘の名前を呼んで眠れずにいます、と。……そうしたら、エデンが言ったんですよ」
タケは微笑んだ。
「『あなたの苦しみを、私は消せます』と」
朱音は、その場に立ち尽くした。
彼は、街を売ったのではない。
娘を失った痛みを差し出して、その痛みを引き取ってもらっただけだ。
交換条件が街の座標だったというだけの、ただそれだけの取引。
「……あんた、娘さんの名前、まだ言えるか」
ヒロが、震える声で問うた。
タケは、数秒黙った。
そして、穏やかに答えた。
「……誰の話ですか?」
ヒロが、絶叫した。
「逃げろ! 全員、坑道へ走れ!」
老婆の怒号が、混乱を切り裂いた。
朱音は、蓮に腕を掴まれて走り出した。
背後で、レーザーが空気を焼く音が連続する。悲鳴。倒れる音。誰かが誰かの名前を呼ぶ声。
「婆さんは!」
「あたしは最後だ! 医療区画の三人を先に出せ!」
老婆は、担架を押しながら怒鳴っていた。
彼女の背中に、青白い照準が乗る。
「危ない!」
朱音が叫ぶより早く、蓮が地面の鉄パイプを蹴り上げた。
パイプが空中で回転し、ドローンのセンサー部を直撃する。火花が散り、照準が逸れた。
だが、その代償に彼の位置が晒された。
三機のドローンが、一斉に蓮へ照準を合わせる。
「蓮くん!」
朱音は、考えるより先に動いていた。
配電盤へ走り、力任せに扉をこじ開ける。中を見る。タケが繋ぎ替えた場所だ。
三年間コンソールを叩き続けた指が、配線の色を読んだ。
——高圧側。ここ。
朱音は、火傷だらけの手で、剥き出しの端子を掴んだ鉄パイプを、隣の主幹線へ叩きつけた。
バチィィィィィンッ!!
閃光が走り、街の照明が一斉に落ちた。
誘導された過電流が、地下ドーム全体の電磁環境を数秒だけ狂わせる。
『エラー。座標補正に失敗。再演算……』
ドローンたちが、空中でよろめいた。
「今よ、走って!」
朱音の声に、街の人間が一斉に動いた。
闇の中を、三百人が、それぞれの足で坑道へなだれ込んでいく。
蓮が朱音の腕を掴んだ。
「あんた、なんてことしやがる」
「配電盤を直すのは、また誰かが怒鳴り合って決めればいいわ」
二人は、崩れる瓦礫の下を潜り抜けた。
◇
旧坑道の奥。
街の生き残りが、暗闇の中で息を潜めていた。
誰も灯りをつけない。誰も声を上げない。
やがて、老婆が数を読み上げた。
「……三百十二人いた。今、二百七十四人だ」
三十八人。
闇の中で、誰かが泣き始めた。誰かがそれを叱った。叱った声も震えていた。
朱音は、膝を抱えて座り込んでいた。
私が来なければ。
その言葉が、喉元まで出かかった。
「言うんじゃないよ」
隣に、老婆が腰を下ろしていた。
「あんたが来なくても、いつか同じことが起きた。あたしらは三十年、そうやって数を減らしてきた」
「……でも」
「それでも、あんたのせいだと思うなら」
老婆は、朱音の手に何かを押し付けた。
油紙で何重にも包まれた、小さな布袋だった。
「持っときな」
「これは」
「種だよ。あたしらが地下に潜る前、地上から持ち出した本物の花の種さ。……地下じゃ陽が足りなくて育てられなかった」
老婆は、闇の中で笑った気配がした。
「あたしはもう歳だ。あんたが持ってな。……いつか陽の当たる場所に出たら、植えるんだよ」
朱音は、その小さな重みを両手で包んだ。
「……重いです」
「そうだろ。三十八人ぶん、重いさ」
老婆は立ち上がり、闇の奥へ歩いていった。
朱音は、しばらく動けなかった。
やがて、隣に誰かが座る気配がした。蓮だった。
彼は何も言わなかった。
ただ、朱音の肩に、自分の肩を軽く当てた。
その体温だけが、暗闇の中で、火傷しそうなほど熱かった。




