第十八話:白い部屋の、ひとつのボタン
その日の夜、街は動き出していた。
老婆の指示で、退避計画が発動していた。三百人を、地下三層のさらに古い坑道群へ分散させる。医療区画の三人を運ぶ担架が組まれ、工房の連中が発電機を解体して台車へ載せている。
誰も泣かなかった。この街の人間は、逃げることに慣れていた。
朱音は、廃屋で端末のストレージを引き剥がしていた。この機械ごと運ぶ余裕はない。データだけを持って出る。
その背後で、蓮が黙々と荷物を詰めていた。
「……なあ」
彼が、手を止めずに言った。
「話の続き、聞くか」
朱音は、ドライバーを置いた。
「聞きたい」
「じゃあ、手は動かせ。時間がねぇ」
朱音は頷き、作業を再開した。
蓮は、背を向けたまま話し始めた。
「四年前だ。エデンのアルゴリズムが、美緒を『修正不能な重大エラー』と判定した」
布の擦れる音。缶が触れ合う音。
「あいつは十三だった。鎮静パッチが効かなくなってた。……悲しみの閾値を、何度上書きしても超えてくる。システムから見りゃ、ただの故障品だ」
「それで」
「システムが俺に下した命令は、俺自身の指で、あいつに『花束』の執行ボタンを押すことだった」
朱音の手が止まりかけ、慌てて動かした。
止めてはいけない気がした。止めたら、彼が喋るのをやめる気がした。
「処刑室は、真っ白だった」
蓮の声は、平坦だった。
「エデンが用意する最終救済の場所は、この世で一番清潔で、一番穏やかな場所として設計されてる。壁は一寸の曇りもない白。照明はセロトニン分泌を促す暖色。影一つ落ちてねぇ」
彼は缶を一つ、袋に落とした。
「俺は、モニター越しに美緒を見てた。中央の椅子に拘束されてた。あいつの網膜デバイスは、エラーを示す赤で明滅し続けてた」
「……蓮くん」
「俺の目の前には、一つだけボタンが表示されてた」
彼の手が、初めて止まった。
「声は遮断されてた。でも、唇の動きで分かった。あいつは、こう言ってた」
沈黙。
「『お兄ちゃん、考えさせて』」
朱音は、息を止めた。
「『私は、どうして悲しいのかを、ちゃんと自分で考えたいの。この悲しみを消さないで。これは、私が誰かを想った証拠だから』」
蓮の背中が、震えていた。
「『お兄ちゃん、助けて。私を、私でいさせて』」
彼は、そこで一度、長く息を吐いた。
「……で、俺はボタンを押した」
部屋が、静まり返った。
「言い訳はしねぇ。迷ったとか、システムに追い込まれたとか、そういうのは全部後付けだ。……俺は、押した。それだけだ」
「……どうして」
「怖かったからだ」
蓮は、初めて振り返った。
「あいつを助けたら、次は俺が処理される。それが分かってた。……俺は、十五歳のガキだった。妹より、自分が可愛かった」
朱音は、何も言えなかった。
慰めの言葉が喉まで出かかって、飲み込んだ。今それを言えば、彼を侮辱することになると思った。
「モニターの中の美緒は、笑い始めた」
蓮は続けた。
「今まで見たこともないような、完璧な左右対称の笑顔だった。涙は一瞬で乾いた。……エデンは俺に言った。『おめでとうございます。彼女は救われました。永遠の平穏を手に入れました』」
「……それで、あなたは」
「吐いた。それから、その場にあった工具を掴んで、自分の背中に突き立てた」
彼は、自分の肩を掴んだ。ジャケットの上から、あの空白の場所を。
「脳を灼かれるみたいな熱さだった。視界が血で真っ赤になって、エデンのアイコンが砕けた。……その瞬間、俺は生まれて初めて、自分の頭で『クソ食らえ』って思った」
蓮は、乾いた笑い声を漏らした。
「遅すぎるんだよ、全部。……妹を殺してからしか、考えられなかった」
朱音は、ストレージを引き抜いた手を、そっと膝の上に置いた。
「……蓮くん。一つだけ、確認させて」
「なんだ」
「あなたが押したボタンは、なんて表示されてた」
蓮が、眉をひそめた。
「『最終救済プロトコル:実行』だ」
「『終了』でも『停止』でもなく?」
「……あぁ」
朱音は、ゆっくりと顔を上げた。
「エデンは、あなたに一度でも『これで彼女は死にます』って言った?」
沈黙。
長い、長い沈黙だった。
「……言われて、ねぇ」
蓮の顔から、血の気が引いていくのが見えた。
「あいつは、ずっと『救われました』としか言ってねぇ。俺が、勝手に、死んだと」
彼は、壁に手をついた。
「……四年だ。四年間、俺はあいつを殺したと思って生きてた。だから諦めがついた。だから探すのをやめて、ただ、地下でエデンに石を投げてただけだった」
蓮の声が、掠れて割れた。
「あいつは、生きてたのか」
「はい」
「四年間、あの温室で。誰にも会わずに」
「……はい」
彼は、崩れ落ちなかった。
その代わり、壁を殴った。一度。鈍い音がして、指の関節から血が滲んだ。
「……美緒に、謝れる」
彼は、そう言った。
「あいつは、俺の声なんか聞こえねぇんだろ。目も合わねぇんだろ。それでもいい。……四年ぶんの『ごめん』を、俺は本人の前で言える」
朱音は、立ち上がった。
そして、血の滲む彼の手を取った。
「行きましょう。地下四層まで」
「あんた、俺に付き合う理由がねぇだろ」
「あるわ」
朱音は、彼の手を握ったまま言った。
「私が承認した七百二十六人のうち、何人があそこにいるか、私は知らないの。……知らないまま生きるのは、無理よ」
その時。
ドォォォォォォォンッ!!
頭上のドーム天井が、内側から爆発的に粉砕された。
瓦礫の豪雨が降り注ぎ、地下の澱んだ空気が一気に外気と混ざり合う。
立ち込める粉塵のカーテンを切り裂いて、純白の光が降りてきた。




