第十八話:崩壊の足音と、白い猟犬
スクラップ・タウンの朝は、澱んだ空気の中に混じる「生活の不協和音」から始まる。
天井のコンクリートから滴り落ちる錆びついた水の音。誰かが古びたストーブに火を熾そうとして何度もマッチを擦る乾いた音。朝の湿った冷気に肺を焼かれた老人たちの重い咳き込み。
朱音は、昨夜から続く背中の痛みと、冷えたコンクリートが骨まで凍えさせるような感覚の中で目を覚ました。毛布を跳ね除けると、肌を刺すような冷気が衣服の隙間から入り込み、肉体を強制的に覚醒させる。
ふと、隣で眠っていたはずの蓮の姿がないことに気づく。
朱音が周囲を見渡すと、蓮は広場の中心に立ち、微動だにせず天井を見上げていた。
彼の背中に、張り詰めた弦のような鋭利な緊張感が漂っている。
「……蓮くん?」
「――静かにしろ」
蓮の声は、地を這うような低さだった。
朱音は呼吸を止め、耳を澄ませた。
集落の喧騒の奥底、地下の暗闇のさらに向こう側から、微かな「音」が聞こえてくる。
それは、地下水の音でも、排気ファンの唸りでもなかった。
キィィィィィィン……という、鼓膜の裏側を直接針で刺すような、超高周波の駆動音。
かつて市役所の感情管理課で、広域監視ドローンのメンテナンスデータに触れていた朱音には、その音の正体が痛いほど理解できた。
「嘘……、もう見つかったの?」
「エデンのアルゴリズムを甘く見るな。……この街が排出する熱、二酸化炭素、そして非効率なノイズの蓄積。それらすべてを逆算すれば、地上から排除すべきバグの座標を特定するなんてのは、奴らにとっちゃ単純な演算に過ぎねぇ」
蓮がそう言い終えた瞬間。
ドォォォォォォォンッ!!
凄まじい衝撃波とともに、スクラップ・タウンの天井――かつて旧時代の搬入口だったはずの巨大なコンクリートの蓋――が、内側から爆発的に粉砕された。
瓦礫の豪雨が降り注ぎ、地下の澱んだ空気が一気に外気と混ざり合う。
もうもうと立ち込める粉塵のカーテンを切り裂いて、それは降臨した。
一分の曇りもない、純白の流線型。
エデンが誇る自律型治安維持ユニット――白い猟犬。
漆黒の地下世界にはあまりにも不釣り合いな、その暴力的なまでの清潔さが、かえって見る者に底知れない生理的嫌悪を抱かせる。
ドローンは無機質なサーチライトを四方に撒き散らし、逃げ惑う人々の姿を次々とロックオンしていく。
「キャアアアアアッ!」
「逃げろ! 奴らが来たぞ!」
平和だった集落は、一瞬にして地獄の様相を呈した。
ドラム缶の焚き火は蹴散らされ、大切に積み上げられた廃材の家々が、ドローンの放つ高エネルギー・レーザーによって音もなく焼き切られていく。
エデンにとって、この街は救うべき場所ではない。
全体幸福指数の平均値を下げる、不純なノイズの塊。システムはただ「清掃」という名の結果を求めて、圧倒的な暴力を執行し始めた。
だが、朱音が最も恐怖を感じたのは、機械による蹂躙ではなかった。
天井の穴から、ロープを伝って次々と降下してくる「人間たち」の姿だった。
彼らはエデン推奨のライトグレーの戦闘服を纏い、顔には一寸の表情も浮かべていない。
網膜デバイスが真紅に発光し、その動きは個人の意志を捨て去ったかのように、ミリ秒単位で完璧に同期している。
治安維持プロトコルを強制適用され、思考をエデンに明け渡した市民部隊。
彼らはかつて、地上で朱音とすれ違っていた市民たちかもしれない。
誰かの親であり、誰かの子供であり、不器用に恋に悩んでいたかもしれない人間たち。
だが今の彼らに、他者の痛みや悲しみを想像する余地はない。
彼らは無言のまま、泣き叫ぶ子供や、立ち上がれない老人たちを、機械的な手つきで次々と拘束していく。
「やめて……! 彼らはただ、ここで生きていただけなのに!」
朱音の叫びは、無機質な銃声と怒号にかき消された。
市民部隊の一人が、朱音の視界に飛び込んできた。
その男の顔には、かつて市役所の隣のデスクで働いていた同僚の面影があった。
だが、その瞳には光がない。
彼は朱音を見ても、「元同僚だ」と思考することはない。網膜に表示される『重要エラー個体:AK-1108。即時捕縛』という文字データに従い、最適化された最短ルートで腕を伸ばしてくる。
「朱音! こっちだ!」
蓮が朱音の腕を強引に掴み、背後から迫るスタン・レーザーの軌道から彼女を引き剥がした。
蓮の手は、狂ったように熱かった。
「奴らに捕まれば、そこで『思考』は終わりだ。……二度と、自分を取り戻せなくなるぞ!」
蓮は、拾い上げた鉄パイプを振るい、迫りくるドローンのセンサーを叩き壊した。
火花が散り、無機質な機械が悲鳴を上げて床に激突する。
朱音は、泥水を跳ね上げながら蓮と共に走り出した。
背後では、大切にしていたアコースティック・ギターが無惨に踏み砕かれ、昨夜まで笑い合っていた人々の体温が、次々とデジタルの冷気に奪われていく。
視界を真っ白に染め上げるサーチライトの光は、まるでエデンが用意した巨大な「花束」の幻影のように、すべてを飲み込もうとしていた。
白い猟犬たちの咆哮が、背後に迫っていた。
地獄のような混沌の中で、朱音は蓮の手を、指が折れんばかりに強く握りしめた。




