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君色の花束に恋をした  作者: れおにゃり
第二部 泥臭い温度と、失敗する権利
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第十七話:演算不能な心拍数

 眠れなかった。

 支給された硬い毛布にくるまり、冷たいコンクリートの壁に背を預けながら、朱音は暗闇の底でただ目を開けていた。

 どこかの配管が水圧に耐えかねて軋む鈍い金属音。ドラム缶の中で不規則に爆ぜる薪の音。身を寄せ合う集落の人々の、時に苦しげな咳き込みを伴う重い寝息。誰かが寝返りを打つたびに、床のトタン板が鳴る。エデンのノイズキャンセリングを通さない、加工されていない生の音波が、容赦なく朱音の鼓膜を震わせ続けていた。


 眠れない理由は、それだけではなかった。

 火傷をした左手の人差し指が、心臓の脈動に合わせてズキズキと熱を持った痛みを放っている。コンクリートから這い上がってくる底冷えが、毛布の隙間から入り込み、容赦なく体温を奪っていく。


 そして。

 朱音の視線の先、数メートル離れた場所で、蓮が横たわっている。

 漆黒のジャケットを丸めて枕代わりにし、硬い地面の上に直接身を横たえていた。広場の片隅で消えかけている焚き火のオレンジ色の残火が、彼の泥だらけの横顔に淡い陰影を落としている。

 起きている時の、あの峻烈な威圧感は鳴りを潜め、目を閉じているその顔は、どこか幼い無防備さを漂わせていた。

 だが、その眉間には、深い眠りの中でさえ決して拭い去ることのできない、鋭い苦悩の皺が深く刻み込まれている。


 朱音は気づかぬうちに、自分の胸の奥が、かつてないほどの熱を帯びて疼くのを感じた。

 ドクン、ドクン、ドクン。

 毛布の下で、自分の心臓の音が、耳の奥でうるさいほどに鳴り響き始めている。


 エデンにいれば、この動悸は即座に検知されていた。視界の隅に冷淡な文字列が点滅し、副交感神経を強制的に刺激する薬物が自動投与される。心臓の高鳴りは、システムにとって速やかに修正すべきエラーだった。

 だが、今のこの不規則で激しい鼓動を止めるパッチは、もうどこにもない。


 朱音は、火傷の絆創膏が巻かれた自分の右手を、そっと左胸の肋骨の上へ押し当てた。

 手のひらを通して伝わってくる、ドスドスという力強い律動。


 ふと、脳裏に、かつてエデンが提示してきたデータが蘇った。

 感情管理官として働いていた頃、定期面談のたびに視界へ一方的に押しつけられてきた数字だ。


『住民ID:AK−一一〇八。あなたと最も適合率が高い個体は、管理番号:SK−〇三〇三です。遺伝的適合率、九十九・八パーセント。この個体と結合した場合、生涯にわたりエラー感情(諍い、嫉妬、悲哀)が発生する確率は〇・二パーセント未満と推算されます』


 では、今目の前の暗闘で眠る、この男との「適合率」を、もしエデンが計算したとすればどうなるだろうか。

 間違いなく、零パーセント以下という致命的な数値が叩き出されるはずだ。

 彼は粗暴で、口が悪く、常にシステムに仇なす最悪の反逆者。火傷しそうなほど体温が高く、泥まみれで不格好な生き方をしている。

 彼と一緒にいれば、間違いなく傷つく。今日のように火傷をし、飢えに苦しみ、いつエデンの追っ手に殺されるかわからない恐怖に怯え続けることになる。


 それなのに。

 朱音は、毛布の隙間から手を伸ばし、暗闇の先にある蓮の横顔の輪郭を、空中でそっとなぞった。

 触れたい、と思った。

 痛い思いをして、傷ついて、不格好な包帯を巻いてくれた、あの熱い掌に。

 彼が背負い続けている、妹を殺したという血を吐くような絶望と、その背中の恐ろしい傷跡に。

 システムが用意した「結果としての平穏」ではなく、彼と一緒に、泥水をすすりながらでも生きていく「不便な過程」に、触れていたい。

 それが、エデンの論理からすれば、自らを破滅へと導く致命的なエラーであったとしても。


「……バカね、私」


 朱音は、暗闇の中で小さく自嘲の笑みをこぼした。

 視界が不意にぼやけ、熱い涙が頬を伝って、冷たいコンクリートの床へ落ちた。


 朱音はゆっくりと目を閉じた。

 冷たい地面の硬さが、背中に現実という重みを容赦なく伝えてくる。


 静寂が支配する地下の夜の底で、ドラム缶の炎が最後に一度だけ、パチリと小さく爆ぜた。

 朱音の乱れた心拍と、蓮の静かな寝息。

 決して同期することのない二つの鼓動だけが、重なり合うことなく、しかし同じオレンジ色の光の下で、暗闇の中で確かに時を刻み続けていた。

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