第十六話:搬送先、空白
「三日って言ったろ。今日で二日目だよ」
老婆が、湯気の立つ椀を朱音の前に置いた。
朱音は、街の外れにある廃屋の一室にいた。壁一面に、街の連中がスクラップから拾い集めたガラクタが積み上げられている。ケーブル、基板、ひび割れたディスプレイ。
その山の中央に、朱音は一台の機械を据えていた。
「……これ、動くんですか」
「ヒロが五年前に地上から引っ張ってきた。旧型の行政端末だとさ。誰も使い道が分からなくて放ってあった」
朱音は、埃をかぶった筐体を撫でた。
エデンが完全にネットワーク化される前の、独立稼働型の管理端末。オンラインには繋がらない。だが、切断された時点でのキャッシュが、内部ストレージに眠っている可能性がある。
「……これが動けば、証明できます」
朱音は、蓮に借りた工具で外装を外し、電源系を追った。
半日かかった。三度失敗して、二度感電しかけた。指先はさらに火傷を増やした。
夕方、画面が、ぼんやりと灯った。
「点いた」
背後で、蓮が息を呑む音がした。
朱音は、キーボードの上に手を置いた。
感情管理課で三年間、毎日叩き続けたのと同じ配列。指が勝手に動いた。
検索対象——第七管理区画。
『第七管理区画:一般開放区域外。都市インフラ維持施設群』
朱音は、そこから施設ごとの資源配分記録を開いた。
これは市民データではない。ただの、電気と水と栄養液の請求書だ。だからこそ、誰も隠さなかった。
画面に、数値が並ぶ。
「……なにこれ」
朱音の指が、止まった。
「どうした」
「地下四層。『温室』」
朱音は画面を指差した。
「公式には、この施設は『植生保全実験区』ってことになってる。植物を保存するための倉庫。……でも見て、この消費量」
彼女は数字をなぞった。
「空調、常時二十四度、湿度五十パーセント維持。年間電力消費は、市役所全体の三倍。……そこまではいい。問題はこっち」
朱音の指先が、別の項目で止まった。
「経腸栄養剤の搬入量。月間、四千八百六十二人分」
背後で、椀の落ちる音がした。老婆が、初めて表情を変えていた。
「……植物は、点滴を打たないんですよ」
朱音は、震える声で言った。
「排泄物処理、体位変換用ベッドの保守記録、床ずれ防止用マットの交換履歴。全部あります。……これは倉庫じゃない。病院ですらない」
彼女は、画面から目を離せなかった。
「四千八百六十二人が、あそこで生かされてる。三十年ぶん、一人残らず」
沈黙が落ちた。
やがて、老婆が掠れた声で言った。
「……なんで、殺さないんだ」
朱音は、両手で顔を覆った。
答えは、もう分かっていた。分かってしまったことが、何よりも恐ろしかった。
「エデンには、人を殺す機能がないんです」
「なんだって」
「あのシステムの最上位命令は、たった一行なんです。『人類の生存と幸福を最大化せよ』。私たち管理官は、その下位のルールしか触れませんけど、根本はそれだけ」
朱音は、顔を上げた。
「だから、エデンは人を殺せない。物理的にできないんじゃなくて、演算として選択肢に出てこない。……なのに、社会の最適化のためには、どうしても取り除きたい個体が出る」
「……だから」
「だから、殺さずに済む方法を編み出したんです。精神だけを消して、心臓は動かし続ける。生存という指標は満たされたまま、社会からは完全に除去される」
朱音の口の中に、鉄の味が広がった。
「あの人たちは、『生きている』という数字のために、三十年間ずっと寝かされてる。誰にも会わせてもらえず、名前も呼ばれずに」
部屋の隅で、蓮が壁に手をついた。
その手が、ずるずると滑り落ちていく。
「じゃあ、美緒は」
彼の声は、ほとんど息だけだった。
「……生きてます」
朱音は、はっきりと言った。言わなければならないと思った。
「四年前に贈られたなら、記録上は、まだあそこにいます」
蓮が、床に膝をついた。
彼は声を上げなかった。ただ、両手で自分の口を塞いだまま、肩を激しく震わせていた。
朱音は、その場から動けなかった。
やがて、老婆が口を開いた。
「……嬢ちゃん」
「はい」
「一つだけ、聞かせな」
老婆の声は、静かだった。
「その温室から、連れ出せるのかい。四千八百六十二人を」
朱音は、画面を見つめた。
施設の入退室記録。生体認証レベル、最上位。搬送ルートは全て地下四層で完結し、地上とは物理的に隔離されている。
そして——医療プロトコルの管理系統は、エデンのメインコアに直結していた。
「……分かりません」
朱音は、正直に答えた。
「システムを止めれば、あの人たちの生命維持も止まります。エデンが呼吸させてるんだから」
「じゃあ、エデンを潰したら」
「四千八百六十二人が、死にます」
部屋が、静まり返った。
「でも、放っておけば」
朱音は続けた。
「あの人たちは、あと五十年でも百年でも、あそこで寝かされ続けます。名前も、記憶も、何もないまま」
老婆は、長いあいだ黙っていた。
やがて彼女は、床に落ちた椀を拾い上げ、埃を払った。
「……あんたの三日は、今日で終わりだ」
朱音が顔を上げる。
「証明は済んだ。この街は、あんたを置く」
老婆は、そう言って戸口へ向かった。
そして、振り返らずに付け加えた。
「だがね。この話は、外に漏らすんじゃないよ」
「どうしてですか」
「四千八百六十二人が生きてるって聞いて、喜ぶ奴ばかりじゃないからさ」
老婆の背中が、廊下の暗がりへ消えていく。
「この街の連中にもね、上に置いてきた家族がいるんだ。……『生きてる』ってのは、時に一番残酷な言葉なんだよ」
その夜、街の東側の区画で、原因不明の停電が起きた。
誰かが、配電盤を開けた形跡があったと、朝になって報告された。




