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君色の花束に恋をした  作者: れおにゃり
第二部 泥臭い温度と、失敗する権利
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第十六話:蓮の過去②:花束の記憶

 マッチの残り香が地下水道の冷たい湿気に飲まれて消えても、蓮の瞳の奥に宿る「火」は消えていなかった。

 彼は膝に置いた自分の掌をじっと見つめている。指先の泥の下で、かつてエデンの最上位コンソールを叩いていた指が、微かに、だが不規則に震えていた。


「……処刑室は、真っ白だった」


 蓮の声が、低い振動となってコンクリートの壁を伝ってくる。

 朱音は息を潜め、彼の言葉を一つも漏らさぬよう、ただ肉体の感覚を研ぎ澄ませた。


「エデンが用意する最終救済の場所は、この世で最も清潔で、最も穏やかな場所として設計されている。壁は一寸の曇りもないホワイト、照明はセロトニン分泌を促す暖色系のグラデーション。そこには、不快な影一つ落ちていない。……俺は、その部屋のモニター越しに、美緒を見ていた」


 中央の椅子に拘束された、まだ幼さの残る少女。彼女の網膜デバイスは、エラーを示す真紅の光を激しく発し続けていた。システムが彼女の脳内をスキャンし、不規則に跳ね上がる心拍数と、論理的に説明不能な深い悲しみを、執拗に「修正」しようと試みている。


「エデンの論理は、いつだってシンプルで、残酷だ。――悲しみは、脳内の電気信号のバグに過ぎない。バグを取り除き、幸福な信号に上書きすることが、個体にとっても全体にとっても最適解である。……あいつがどれほど泣いていても、どれほど必死に何かを伝えようとしていても、システムにとっては、単なるノイズに過ぎなかったんだ」


 蓮は、ジャケットの胸元を強く掴んだ。


「俺は、コンソールの前に座っていた。俺の目の前には、たった一つの、大きな実行ボタンが表示されていた。……それを押せば、美緒の脳内に『花束』が流し込まれる。エデンの膨大なデータから抽出された理想の記憶と究極の幸福。それを脳に直接書き込み、元の精神を完全に消去する。……それが、エデンの言う『救済』だ」


 朱音はその単語を頭の中で反芻し、背筋に氷を押し当てられたような寒気を感じた。


「俺は、迷っていた。……いや、迷うことすらエデンに禁じられていた。視界には『推奨:即時実行』の文字が点滅し、俺の脳内には『これが彼女のためである』という論理的な裏付けが絶え間なく送り込まれてきた。……あいつは椅子に縛り付けられたまま、モニター越しの俺に向かって叫んでいたんだ。声は遮断されていたが、唇の動きでわかった。――『お兄ちゃん、考えさせて』」


「考えさせて……?」

 朱音が掠れた声で繰り返した。


「ああ。あいつは言ったんだ。――『私は、どうして悲しいのかを、ちゃんと自分で考えたいの。この悲しみを消さないで。これは、私が誰かを想った証拠だから。……お兄ちゃん、助けて。私を、私でいさせて』」


 蓮の拳が、膝の上で白くなるほど強く握りしめられた。パキッ、と関節が鳴る音が暗闇に響く。


「……だが、俺はボタンを押した。エデンの論理に、俺の思考が完全に敗北したんだ。俺は、あいつの過程を奪い、幸福という名の死を贈った。……その瞬間、美緒の瞳から、真紅の警告灯が消えた」


「モニターの中の美緒は、笑い始めたよ。……それは、今まで見たこともないような、完璧な左右対称の笑顔だった。涙は一瞬で乾き、彼女を苦しめていた全ての思考は消去された。……エデンは俺に言った。――『おめでとうございます。彼女は救われました。彼女は今、永遠の平穏を手に入れました』と。……俺は、その美しすぎる笑顔を見て、嘔吐した」


 蓮は、地面に視線を落としたまま、絞り出すような声で続けた。


「その笑顔は、人間じゃない。……それは、ただの出力結果だ。過程を奪われ、思考を放棄させられ、ただシステムが望む数値を叩き出すだけの、肉体を持った演算回路だ。……俺は、自分が何をしたのかをようやく理解した。俺は、妹を救ったんじゃない。……俺は、妹が『人間として絶望し、思考する自由』を殺したんだ」


 蓮は立ち上がり、朱音に背を向けた。

 焚き火の残火に照らされたその背中の、あの凄まじい傷跡が、再び朱音の瞳に焼き付く。


「俺は、その場にあった工具を手に取り、自分の網膜デバイスの接続端子に突き立てた。エデンが俺の脳に流し込んでくる幸福な納得を、物理的な激痛で上書きするために。……脳を灼かれるような熱さと、神経を引き千切る感覚。視界が血に染まり、エデンのアイコンが砕け散った瞬間、俺は初めて、自分自身の頭で『クソ食らえ』と思った」


「……朱音。お前は今、腹が減って、傷が痛くて、寒さに震えてるだろう」

 蓮が、静かに振り返った。その瞳には、エデンの整った市民には決して宿らない、暗く燃えるような光があった。

「それはな、お前が自分の頭で、自分の命をどう守るか考えてる証拠だ。エデンに思考を売り渡し、痛みすら感じなくなった奴らより、今の不格好なお前の方が、ずっと『人間』だよ」


 朱音は、自分の包帯を巻かれた掌をそっと握りしめた。


「私は……」

 朱音は、自分の震える声に驚きながらも、言葉を続けた。

「私は、もう、答えを教えてもらうのは嫌。……たとえ、この先にあるのが絶望でも。私は、私の頭で考えて、傷ついて、後悔したい。……それが、不純物だと言われても」


「……ああ。それでいい」


 蓮は短く答え、朱音の隣を通り抜けて、地下のさらに奥へと歩き出した。


 朱音は、泥だらけのブーツを持ち上げ、彼の後を追った。

 網膜デバイスのない視界は、暗くて不確かだ。

 自分の足裏が、冷たいコンクリートの感触を一歩ずつ確かめながら、前へ進む。

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