第十五話:背中の空白
地下の夜は、むき出しの暗闇だった。
地上の夜は、エデンによって完璧に調律された休息時間だ。街全体が穏やかなミッドナイトブルーに染まり、湿度と体温は睡眠に最適な数値へ自動調節され、脳波を誘導する不可聴音が降り注ぐ。
だがここでは、ドラム缶の焚き火が消えかけると、世界は底知れない漆黒に塗り潰される。遠くで響く機械の異音や、誰かの苦しげな咳き込みが、加工されない音波として鼓膜を震わせた。
朱音は支給されたボロボロの毛布にくるまり、建物の影で眠る人々の気配を感じていた。
眠れない。火傷した指が心臓の脈動に合わせて疼く。コンクリートから這い上がる底冷えが、毛布の隙間から体温を奪っていく。
ふと、広場の隅、廃材を積み上げた壁の裏側で、水の音がした。
朱音がそちらへ視線を向けると、上半身を剥き出しにした蓮が、錆びた配管から滴る冷水で顔を洗っているのが見えた。
焚き火の残火が、彼の背中に淡い陰影を落としている。
「……あっ」
朱音は、言葉を失った。
肩甲骨のちょうど真ん中。かつて網膜デバイスと脳幹を接続する神経インターフェースが存在したはずの場所に、凄まじい空白があった。
単なる傷跡ではない。肉が抉れ、無理やり引きちぎられたような、歪で深いクレーター状の痕。周囲の皮膚はケロイド状にひきつれ、白く硬直したまま脊髄に沿って這い回っている。
そして、その傷は、あまりにも彼の体格に対して大きすぎた。
まだ細い、少年の背中。骨がはっきりと浮いている。その真ん中に、大人の拳ほどの穴が空いている。
「……見てんじゃねぇよ」
蓮が、顔を上げずに言った。
彼は乱暴に髪を振り、傍らのジャケットを肩に引っ掛けた。
「……ごめんなさい。でも、その傷」
「エデンからの招待状を、自分で破り捨てた代償だ」
蓮は朱音から数歩離れた位置に腰を下ろし、ポケットからマッチを取り出した。
シュッ、という乾いた音と共に、小さな火が灯る。彼はそれを、ただじっと見つめた。
「いくつの時なの」
「……十五」
朱音は息を呑んだ。
「十五歳で、自分の背中に、それを」
「ペンチと、ドライバーだ。鏡ごしにやった。二回失敗して、三回目で抜けた」
彼はマッチの炎を見つめたまま、淡々と言った。
「あんた、俺のことを最初から地下のドブネズミだと思ってただろ」
「……そんなふうには」
「違うんだよ。俺は、あんたよりずっと内側にいた」
「え」
「俺のIDコードは、第一階層の最上位グループに属してた」
朱音の心拍が跳ねた。
第一階層。エデンと最も深く同期し、その思考の断片にすら触れることを許された、文字通りのエリート市民。
「そんな。あなた、十九歳でしょう。第一階層は、通常は成人後に選抜が——」
「育成ポッド出身だ」
蓮は、朱音の言葉を遮った。
「エデンが遺伝子から設計して、専用の施設で育てる。親はいねぇ。生まれた時から『第一階層になる予定の個体』だった。……八歳で最適化補助の実習に入って、十二で実務に就いた」
朱音は、返す言葉を見つけられなかった。
「毎日、何万っていう市民の生体データが俺の視界を流れていった。この男は幸福度が足りない。この女は悲しみの閾値を超えている。この子供は将来エラーを起こす可能性が〇・八パーセントある。……俺はそれを見て、最適なパッチを割り振るだけだ」
彼の声には、怒りすら混じっていなかった。乾いた無機質な後悔だけが流れている。
「ボタン一つで、誰かの悩みを消して、誰かの絶望を上書きして、世界を綺麗なシアンブルーに保つ。……それが正義だと、本気で信じてた」
「……私と、同じね」
「いや」
蓮は、初めて朱音を見た。
「あんたは三年で気づいた。俺は七年やって、気づかなかった」
マッチの火が、彼の指先に迫る。彼は熱さを感じる前にそれを吹き消した。
再び訪れた暗闇の中で、彼の声だけが響く。
「妹がいた」
その一言が出た瞬間、空気が数度下がったような錯覚を覚えた。
「同じポッドで育った。俺の二つ下だ。……名前は、美緒」
「美緒さん」
「あいつは、出来が悪かった」
蓮の声が、わずかに柔らかくなった。
「よく転んだ。システムが歩行補助をしても、自分の足で不器用に走ろうとして、膝を擦り剥いて泣いた。鎮静パッチが効かないくらい、あいつの感情は激しくて、不揃いだった」
彼は、ふっと息を吐いた。
「道端に、ホログラムじゃない本物の雑草が生えてることがあるんだ。舗装の割れ目とか、排気口の脇とか。……あいつはそれを見つけるたびに立ち止まって、一時間でも二時間でも眺めてた」
暗闇の中で、蓮が笑ったのが分かった。ひどく短い、下手な笑い方だった。
「『お兄ちゃん、この花、すごく変な形をしてる。でも、なんだか愛おしいね』って」
朱音は、胸が締め付けられるのを感じた。
「俺は、あいつを叱ったよ。そんな非効率なものは見るな、システムに従え、最適な幸福を受け入れろってな」
蓮の拳が、膝の上で白くなるほど強く握りしめられた。
「……俺は、自分の思考をエデンに預けきってたから。あいつが抱えてた輝きが、ただの不快なエラーにしか見えなかったんだ」
沈黙が落ちた。
遠くで、地下水が滴る音が等間隔に時を刻む。
朱音は、何も言わずに次の言葉を待った。
だが、蓮は続けなかった。
「……その先は」
朱音が問いかけると、彼は立ち上がった。
「今日は、ここまでだ」
彼の声は、拒絶ではなかった。もっと単純な、ただの限界だった。
朱音は、それ以上追わなかった。
「一つだけ、聞いていい」
「なんだ」
「美緒さんは、いま——」
蓮の背中が、止まった。
「……昨日まで、死んだと思ってた」
彼はそう言って、暗闇の奥へ歩き出した。
「あんたが、そうじゃないかもしれないって言った。だから俺は今、十五の時から初めて、眠れねぇんだよ」
朱音は、その背中を見送った。
彼の肩甲骨の真ん中にある空白が、闇の中でも、はっきりと見えるような気がした。




