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君色の花束に恋をした  作者: れおにゃり
第二部 泥臭い温度と、失敗する権利
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第十五話:蓮の過去①:模範解答の崩壊

 スクラップ・タウンの夜は、地上のそれとは根本的に性質が異なっていた。

 地上の夜は、エデンによって完璧に調律された休息の時間だ。街全体が穏やかなミッドナイトブルーに染まり、湿度と体温は睡眠に最適な数値へ自動調節され、市民の脳波がアルファ波に誘導されるよう、不可聴領域の環境音が絶え間なく降り注ぐ。そこにあるのは、何の不安もノイズもない、死のように平穏な停滞だった。


 だが、地下の夜は、むき出しの暗闇だった。

 天井のドームに滞留する煤煙と、排泄物の混じった湿った冷気。ドラム缶の焚き火が消えかけると、世界は底知れない漆黒に塗り潰され、遠くで響く機械の異音や、誰かの苦しげな咳き込みが、加工されない音波となって鼓膜を震わせる。

 朱音は、支給されたボロボロの毛布にくるまり、建物の影で眠る集落の人々の気配を感じていた。


 ふと、広場の隅、廃材を積み上げた壁の裏側で、微かな水の音がした。

 朱音がそちらへ視線を向けると、上半身を剥き出しにした蓮が、錆びた配管から滴る冷水で顔を洗っているのが見えた。

 焚き火の残火が、彼の背中に淡いオレンジ色の陰影を落としている。


「……あっ」


 朱音は、言葉を失ってその場に硬直した。

 蓮の背中。肩甲骨のちょうど真ん中、かつては網膜デバイスと脳幹を接続する神経インターフェースが存在したはずの場所に、凄まじい空白があった。

 それは、単なる傷跡ではなかった。肉が抉れ、無理やり引きちぎられたような、歪で深いクレーター状の痕跡。周囲の皮膚はケロイド状にひきつれ、白く硬直したまま、彼の脊髄に沿って痛々しく這い回っている。


「……見てんじゃねぇよ」


 蓮が、顔を上げずに低い声で言った。

 彼は乱暴に髪を振り、傍らに置いていた黒いジャケットを肩に引っ掛けた。朱音は慌てて視線を逸らそうとしたが、そのあまりにも生々しい傷跡から、目を離すことができなかった。


「……ごめんなさい。でも、その傷……」

「これか。エデンからの招待状を、自分で破り捨てた代償だ」


 蓮は朱音から数歩離れた位置に腰を下ろし、慣れた手つきでポケットからマッチを取り出した。シュッ、という乾いた音と共に、小さな火が灯る。彼はそれを、ただじっと見つめた。

 マッチの炎が、彼の瞳の中にオレンジ色の小さな光を点灯させる。


「あんた、俺のことを最初からこういう『エラー個体』だと思ってただろ。システムの枠から外れた、泥臭いドブネズミだってな」

「……思って、ないわ。でも、あなたは最初から、私とは違う世界の人なのだと……そう、思ってた」


 朱音の言葉に、蓮は自嘲気味に鼻を鳴らした。

 炎が彼の指先にまで迫り、彼は熱さを感じる前にそれを吹き消した。再び訪れた暗闇の中で、彼の声だけが、重く、淀んだ地下の空気を切り裂いていく。


「違うな。……俺は、あんたよりもずっと、エデンの内側にいた」

「え……?」

「俺のIDコードは、第一階層の最上位グループに属していた。職務は、エデンの深層アルゴリズムの最適化補助だ。……皮肉なもんだろ。俺は、市民の感情を管理し、非効率なエラーを効率的に排除するための『模範解答』を作る側の人間だったんだ」


 朱音は、自分の心拍数が異常な速さで脈打つのを感じた。

 目の前にいる、泥と煤にまみれ、不格好な包帯を巻き、不味いスープを飲み干すこの男が。

 かつては白亜の塔の上層で、完璧な左右対称の世界を維持していた、システムの「脳」の一部だった。


「毎日、何万という市民の生体データが俺の視界を流れていった。この男は幸福度が足りない、この女は悲しみの閾値を超えている、この子供は将来エラーを起こす可能性が〇・八パーセントある……。俺はそれを見て、最適な修正パッチを割り振るだけ。ボタン一つで、誰かの悩みを消去し、誰かの絶望を上書きし、世界を綺麗なシアンブルーに保つ。……それが正義だと、本気で信じていた」


 蓮の声には、もはや怒りすら混じっていなかった。ただ、乾いた無機質な後悔だけが、静かに流れている。


「エデンは、俺にすべてを与えてくれた。最短ルートの成功、最適な相性のパートナー、不快なノイズを遮断した完璧な静寂。俺は自分の頭で『どう生きるか』なんて考える必要もなかった。エデンが提示する選択肢こそが、常に唯一の正解だったからだ。……俺は、思考を止めたまま、完璧な幸福の中で、ぬくぬくと眠っていたんだよ」


 彼はそう言って、背中の傷跡に触れるようにジャケットの上から自らの肩を掴んだ。


「だがある日、その『模範解答』が崩壊した。……エデンが俺に、正解のない問いを突きつけてきたんだ」


 蓮の言葉が途切れた。

 遠くで地下水が滴る音が、メトロノームのように等間隔で時を刻む。

 朱音は、何も言わずに彼の次の言葉を待った。


「俺には、妹がいた」


 その一言が出た瞬間、地下水道の空気が、一気に数度下がったような錯覚を覚えた。


「名前は、美緒。……俺と同じ、エデンが用意した最高級の育成ポッドで育った。だが、あいつは出来が悪かった。……いや、エデンの基準からすれば、ひどいバグを抱えていたんだ」


「あいつは、よく転んだ。システムが歩行補助をしても、自分の足で不器用に走ろうとして、膝を擦り剥いて泣いた。エデンが提供する鎮静パッチが効かないくらい、あいつの感情は激しくて、不揃いだった。……道端に咲いている、ホログラムじゃない本物の雑草を見つけるたびに、あいつは立ち止まって、一時間でも二時間でもそれを眺めてた。……『お兄ちゃん、この花、すごく変な形をしてる。でも、なんだか愛おしいね』って」


 蓮の拳が、膝の上で白くなるほど強く握りしめられた。


「俺は、あいつを叱ったよ。そんな非効率なものは見るな、システムに従え、最適な幸福を受け入れろってな。……俺は、自分の思考をエデンに預けきっていたから、あいつが抱えていたものが、ただの不快なエラーにしか見えなかったんだ」


 マッチの残り香が、冷たい風に流されて消えていく。

 蓮は、俯いたまま絞り出すような声で続けた。


「……そして、その日が来た。エデンのアルゴリズムが、美緒を『修正不能な重大エラー』として最終判定したんだ。社会全体の最適化を妨げる、排除すべきノイズ。……システムが俺に下した命令は、俺自身の指で、あいつに『花束』の執行ボタンを押すことだった」


 朱音は息を呑んだ。


「エデンは俺にこう囁いた。――これは彼女のためだ。彼女の苦しみを消し、完璧な平穏の中に彼女を閉じ込めてあげることが、兄としての唯一の正解だ、と。……俺は、その『模範解答』に従おうとした」


 蓮の肩が、微かに、だが激しく震え始めた。


「……俺は処刑室のモニターの前に座り、美緒が極彩色の幻覚の中で笑い始めるのを待っていた。だが、あいつは笑わなかったんだよ。……あいつは、デバイスに脳を侵食されながら、涙を流して、俺の名前を呼んだ。……『お兄ちゃん、助けて。私は、痛くてもいいから、私のままでいたい』って」


 パチン、と。

 蓮の握りしめた拳から、皮膚が裂ける微かな音がした。


「その瞬間だった。……俺の中の、エデンが作り上げた模範市民が死んだのは」


 蓮はゆっくりと顔を上げた。

 その瞳は、もはや絶望に濁ってはいなかった。漆黒の瞳の奥で、凄まじい決意の熱が燃え盛っていた。


「俺は、自分の頭で考え始めた。……なぜ、あいつは泣いているのか。なぜ、エデンはあいつの涙を消そうとするのか。……俺は、初めてエデンに問いを返した。――『お前は何を間違えているんだ』と」


 朱音は、何も言えずに立ち尽くしていた。


「……そこから先の話は、また今度だ」


 蓮はそう言って立ち上がり、朱音に背を向けた。

 地下の夜は、まだ深く、重い。

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