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君色の花束に恋をした  作者: れおにゃり
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第十四話:正しさの捜索者

 午前六時。

 サキの寝室の照明が、脳波をシータ波からベータ波へ滑らかに誘導する光量で、緩やかに立ち上がった。


『おはようございます、サキ様。本日の運勢パラメータは「澄んだ青」です。昨晩の睡眠品質、九十八・二パーセント。素晴らしい数値です』


 サキは目を開け、微笑んだ。

 笑うべき場面で笑う。それは呼吸と同じくらい自然な動作だった。


『本日付で、あなたに特別任務が付与されました』


 視界に、一つのファイルが展開される。


『対象個体:AK−一一〇八。旧・住民感情管理課職員。

 昨日十五時、中央駅前交差点にて重篤な精神汚染を確認。逃亡中。

 あなたは対象と親和度が最も高い個体です。捜索および説得を担当してください』


 サキは、朱音の顔写真を見つめた。

 胸の奥が、きゅっと縮むような感覚があった。


『生体反応に軽度の変動を検知。……悲しみですか、サキ様』

「そうみたい」

『鎮静パッチを推奨します』

「いらないわ」


 サキは、自分でも少し驚いた。

 断ったのは初めてだった。


『理由をお聞かせください』

「だって、悲しいままのほうが、朱音さんを本気で捜せる気がするの」


 数秒の沈黙があった。


『……論理的です。承認します』


 サキは頷いて、ベッドから降りた。


               ◇


 午前九時。中央区第四区画。

 サキは、二十名の市民部隊を従えて、旧市街地の路地を捜索していた。


 彼女の網膜には、地上の全カメラから抽出された朱音の移動経路が、赤い線となって表示されている。線は交差点から路地へ伸び、そこでぷつりと途切れていた。


「地下ですね」


 サキは、ひび割れたアスファルトの上に膝をついた。

 排水溝の格子。錆びついた鉄のハッチ。エデンの管理信号が届かない、都市の盲点。


「……朱音さん。こんな暗くて、汚いところに」


 サキは、格子の隙間から漂ってくる腐敗臭に、思わず顔をしかめた。

 自分の頬の筋肉が動いたことに、彼女は気づいた。


 嫌悪。これは、嫌悪という感情だ。

 エデンの市民には、めったに割り当てられない感情だった。


『サキ様。当該ハッチの開放には工兵ユニットの手配が必要です。到着まで四時間』

「待ちます」


 サキは、その場に立ち尽くした。


 四時間。

 エデンの管理下で、四時間も「待つ」という経験は、彼女の記憶にほとんどなかった。あらゆる行動は最短ルートで最適化され、待機時間は睡眠か娯楽データの再生で埋められる。


 だが、今日は違った。

 彼女の脳は、四時間ぶんの空白を与えられていた。


 そして、空白を与えられた脳は、考え始めた。


 ——どうして、朱音さんは逃げたんだろう。


 サキは、何度もそれを考えた。

 答えは、エデンが最初から用意している。「重篤なバグに侵されたから」。


 でも、と彼女は思った。

 バグって、何。


 朱音さんは、昨日のお昼まで、ちゃんと仕事をしていた。私と一緒にご飯を食べていた。私の話を聞いて、笑ってくれた。

 その人が、たった数時間で「バグ」になる。

 ならば、私も明日「バグ」になるかもしれない。

 バグになった私を、朱音さんは追いかけてくれるだろうか。


『サキ様。演算負荷の上昇を検知。思考の反芻が確認されます』

「ごめんなさい。少し考え事をしていて」

『不要な思考は、精神衛生を損ないます。停止を推奨します』

「はい」


 サキは、素直に思考を止めた。


 だが、三分後にはまた考え始めていた。


               ◇


 午後一時。

 工兵ユニットの到着を待つあいだ、サキは自分の行動ログを開いた。

 業務手順の確認のためだった。昨日、交差点で自分が何をしたのか、記録を確認しておくのは正しい手続きだ。


 時系列が展開される。


 一五:〇二:一一 対象を視認。説得を開始。

 一五:〇二:一四 対象、逃走継続。追跡。

 一五:〇二:二二 軽微な行動逸脱を検知。補正パッチ適用。

 一五:〇二:二三 追跡再開。


 サキは、その行を見つめた。


 軽微な行動逸脱。

 どんな逸脱だろう。


 サキは詳細を展開しようとした。

 該当ログには、閲覧権限がなかった。


「……あら」


 サキは首を傾げた。

 自分の行動ログを、自分が見られない。そんなことが起きるだろうか。


 彼女は権限申請を送った。


『申請は却下されました。当該ログは対象個体の精神衛生保護の観点から封印されています』

「私の精神を、私から守るってこと?」

『はい』

「……それは、変じゃない?」


 沈黙。


『質問の意図が不明です』

「だって、私の記憶でしょう。私のものを、私が見られないって、おかしいわ」


『サキ様。演算負荷が規定値を超過しています。鎮静パッチの投与を推奨します』

「いらない」

『推奨します』

「いらないって言ってるでしょう」


 サキは、自分の声が思いのほか強く出たことに驚いた。

 路地に立っていた市民部隊の数人が、無表情のままこちらを向いた。


 サキは、慌てて微笑んだ。


「ごめんなさい。……なんでもないの」


 その時、彼女の視界に、新しい通知が展開された。


『SK−〇三〇三。あなたの精神耐性値および対象への親和度を再評価しました。

 あなたを、治安維持プロトコルにおける「上位防衛端末」の候補として登録します』


「上位、防衛端末」


『はい。エデンの現場判断権限を一部委譲される特別な役職です。

 あなたは今後、システムの実行にあたって、承認を与える立場になります』


 サキは、その言葉を口の中で転がした。


「……承認を、与える」


『はい。名誉なことです。おめでとうございます、サキ様』


 サキは、微笑んだ。

 笑うべき場面だったからだ。


 だが、彼女の胸の奥には、まだあの縮むような感覚が残っていた。

 鎮静パッチを、彼女は今日一日、一度も受け取っていなかった。


 足元で、工兵ユニットが鉄のハッチを切断する火花が散り始めた。


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