第十三話:火傷の跡と、失敗する権利
共同炊事場は、むせ返るような熱気と白煙、そして名状しがたい有機物の匂いに支配されていた。
錆びたドラム缶を半分に切った即席のかまどがいくつも並び、その下で赤い炎が不規則に舌を伸ばしている。換気システムなどというものは存在せず、煙は天井に滞留し、朱音の目を刺激して生理的な涙を滲ませた。
その中央に、白髪を乱雑に束ねた老婆が立っていた。
背は朱音より低い。だが、周囲の男たちが誰も彼女の前を横切らないことで、この街での位置が分かった。
「あんたが、七百二十六人か」
老婆は、包丁を研ぐ手を止めずに言った。
朱音は、喉が詰まるのを感じながら頷いた。
「はい」
「言い訳は」
「ありません」
老婆は、初めて顔を上げた。
深く刻まれた皺の奥から、鋭い目がまっすぐ朱音を貫く。
「ほう。……なら、なんでこっちに来た」
「システムの中から、あれを止める方法がなかったからです」
「見つかったのかい」
「まだ」
老婆は、フン、と鼻を鳴らした。
「ヒロが言ってたよ。あんた一人ぶんの飯は、誰か一人ぶんの飯だってな。あれは正しい。この街は慈善事業じゃない」
老婆は、傍らのまな板の上に、泥がついたままの歪な形の根菜を転がした。
「だからね。飯を食いたきゃ、まず自分の飯を自分で作りな。それが、ここの入場料だ」
朱音は、まな板の前に立った。
教科書で「旧時代の人類が摂取していた非効率なエネルギー源」として画像でしか見たことのない、本物の野菜。表面は凸凹で、所々に細い根が生えている。完璧な球体でも、均一な立方体でもない。
老婆は、木の柄が黒ずんだ古びた包丁を差し出した。
朱音は震える右手で柄を握る。ずしりと重い。刃先は所々が欠けており、金属の冷たさが掌を通して脳へ伝わってくる。
エデンでは、市民が刃物に触れることはシステムによって厳重にロックされていた。料理という危険な過程は、すべて機械が代行すべきタスクだったからだ。
朱音は左手で根菜を押さえ、刃を当てた。
「最適な切断角度」や「必要な力」を示すガイドラインは、どこにも表示されない。
どれくらいの力を込めればいいのか。どの角度で入れれば、自分の指を落とさずに済むのか。
すべてを自分の脳で計算し、筋肉に命令しなければならない。
トンッ、と。
恐る恐る押し込むと、鈍い音とともに根菜が半分に割れた。
だが、切り口は斜めに歪み、大きさもバラバラだった。
老婆は何も言わず、次の食材を放り投げた。
朱音は額に脂汗を滲ませながら、ひたすらに刃を動かした。
硬い繊維に刃が引っかかる。指先を切りそうになり、心臓が跳ね上がる。そのたびに角度を微調整し、押し込む力を変える。
自分の頭で考え、行動し、結果を見て、次の動作を修正する。
切り終えた不揃いな食材を、煮えたぎる黒い鉄鍋へ放り込む。
かまどから立ち昇る炎の熱が、顔の皮膚をジリジリと焼いた。パチッ、と薪が爆ぜる音に肩を揺らしながら、木杓子で鍋をかき混ぜる。
味付けもまた、手探りだった。
粗塩の結晶を、指先で摘んで落とす。適量が分からない。数値化されたデータはない。少し舐めては「薄い」と感じ、また足す。
その時だった。
手元の狂いから、朱音の右手の指先が、熱せられた鉄鍋の縁に触れた。
「——っ!」
チリッ。
皮膚の表面が焼け焦げるような痛みが走り、朱音は反射的に手を引っ込めた。
人差し指の腹が赤く腫れ上がり、ヒリヒリとした熱が脈打っている。
エデンであれば、鍋の温度が危険域に達した時点でシステムが筋肉を強制停止させ、接触を未然に防いでいたはずだ。
「なんだ、やっちまったか」
老婆が、皺だらけの顔をほころばせた。
「……すみません。私、不注意で」
朱音がシステムに謝罪するように頭を下げると、老婆は不思議そうな顔をした後、腹の底から笑い出した。
「謝ってどうすんだ。火が熱いってことを、自分の身体で一つ学んだだけじゃないか」
老婆はポケットからよれよれの絆創膏を取り出し、朱音の指先に乱暴に巻きつけた。
その手には、数え切れないほどの火傷の跡と、刃物で切った無数の傷跡が刻み込まれていた。
「いいかい、嬢ちゃん。ここじゃな、火傷の跡は生きてる勲章なんだよ」
朱音は、絆創膏の巻かれた指先を、もう片方の手で包み込んだ。痛い。だがその痛みは、どこまでも熱かった。
やがて、朱音の初めての料理が完成した。
広場の隅の木箱に腰掛けていた蓮の前に、凹んだブリキの椀を差し出す。
「……なんだこれ」
蓮は、椀の中の濁った茶色い液体を見て、あからさまに眉をひそめた。
切り方はバラバラで、火にかけすぎたせいで全体が少し焦げ臭い。
「私が、作ったの」
蓮は無言のまま、木の匙ですくい、口に運んだ。
喉の奥へ流し込む。その瞬間、彼の顔が盛大に歪んだ。
「……しょっぱ。それに、焦げ臭ぇ」
「えっ」
「野菜も硬い。火が通ってねぇぞ」
朱音は自分でも一口飲んでみた。
——不味い。
塩辛すぎて舌が痺れるし、焦げた苦味が鼻に抜ける。
「ごめんなさい。私、やっぱり何も——」
朱音が椀を引っ込めようとした時、蓮の手がそれを遮った。
彼は椀を奪い取ると、顔をしかめながら、無言で次々と口へ運び始めた。
「待って、無理して食べないで!」
「うるせぇ」
蓮は、絆創膏の巻かれた朱音の人差し指をちらりと見た。
「……この街で、飯を残すのが一番の悪だ」
彼は一滴残らず飲み干し、空になった椀を木箱に置いて、乱暴に口元を拭った。
「ま、次は塩を減らせ」
朱音は、空の椀と、火傷した自分の指先を交互に見つめた。
失敗した。不味かった。
でも彼は、それをエラーとして排除せず、全部飲み込んだ。
その様子を、老婆はかまどの向こうから黙って見ていた。
やがて彼女は、包丁を布で拭いながら言った。
「……いいだろう。三日だ」
朱音が顔を上げる。
「三日、あんたの飯を出してやる。そのあいだに、あんたが持ってきたっていう『搬送先』とやらの話を、あたしに納得させな」
老婆は目を細めた。
「納得できなきゃ、上へ返す。……この街の連中の腹を減らしてまで、あんたを匿う理由がないからね」
朱音は、包帯と絆創膏だらけの両手を握りしめ、深く頭を下げた。
「……三日で、証明します」
ドラム缶の炎が、パチリと爆ぜた。
老婆は、それきり何も言わずに鍋をかき混ぜ始めた。
彼女のよれよれのコートのポケットから、油紙で何重にも包まれた小さな布袋の端が、わずかに覗いているのに、朱音はまだ気づいていなかった。




