第十三話:忘れられたスクラップ・タウン
胃の腑に落ちたどろりとした黄金色の糖分が、冷え切っていた血液を内側から強制的に沸騰させていた。
朱音の足取りは、数十分前とは明確に違っていた。泥水を跳ね上げるブーツの重さは変わらないが、膝の関節には確かな力が宿り、暗闇を見据える視界の焦点が鋭く定まっている。
剥き出しのパイプが這う巨大な地下水脈の脇を抜け、さらに深く、エデンの管理領域から物理的に遠ざかっていく。
やがて、澱んだ空気に微かな変化が生じた。
カビと鉄錆の匂いに混じって、焦げた獣の脂のような匂いと、鼻腔の奥をツンと刺すような煙たさが漂い始めたのだ。そして、完全な静寂だった空間に、かすかな振動が混ざり始める。
「……着いたぞ」
先を歩いていた蓮が、巨大な防護扉の残骸を潜り抜けながら低く呟いた。
朱音がその背中に続き、崩落したコンクリートのアーチを抜けた瞬間。
彼女の網膜を、強烈な色彩と騒音が暴力的に殴りつけた。
「う、そ……」
朱音は息を呑み、その場に立ち尽くした。
広大な地下の空洞。かつて旧時代の巨大な地下鉄のジャンクションか、あるいは退避壕だったのだろう。見上げるほど高いドーム状の天井の下に、数え切れないほどの「バラック」が、まるで意思を持った巨大な菌糸のようにびっしりと群生していた。
トタン板、ひしゃげたコンテナ、旧時代の車両の残骸、錆びた鉄パイプ。それらを不規則に、無計画にツギハギして組み上げられた街並み。エデンのような、シアンブルーとライトグレーに統一された幾何学的な美しさは微塵もない。
街のあちこちで、ドラム缶の中で赤々とした炎が燃え盛っている。
不規則に揺らめくオレンジ色の光が、無数の影を壁に投射し、生き物のように蠢かせていた。ところどころで明滅する旧式のネオン管が、毒々しい紫や緑の光を撒き散らしている。
そして何より、朱音を圧倒したのはその「音」だった。
「どけ! 鉄骨通るぞ!」
「馬鹿野郎、そっちのバルブは締めるなって言っただろ!」
「あはははっ! お前、顔真っ黒じゃねえか!」
鼓膜を直接震わせる、無数の人間の声。怒号、大笑い、誰かの激しい咳き込み、鉄が打ち付けられる金属音。
何一つフィルタリングされていない、むき出しの騒音が、朱音の脳髄を直接揺さぶる。
蓮に促されるまま、朱音はスクラップ・タウンの泥だらけのメインストリートへ足を踏み入れた。
すれ違う人々は皆、エデンのような清潔なシームレスウェアではなく、油汚れと泥にまみれたボロボロの衣服を纏っていた。片足を引きずっている老人、顔の半分に醜い火傷の跡がある青年、栄養状態が悪くひどく痩せ細った子供。
システムから「エラー」として弾き出された、不揃いで非効率な人間たち。
だが、彼らの瞳には、エデンの従順な市民たちがとうの昔に失ってしまった、ギラギラとした強烈な「光」が宿っていた。
ドンッ!
「っと、わりぃ!」
不意に、大きな荷物を抱えた男が朱音の肩にぶつかった。
肩に鋭い痛みが走る。朱音が顔をしかめると、男はニカッと歯の欠けた口を開けて笑い、すぐに雑踏へと消えていった。
「ここでは自分の身は自分で守れ。ボーッとしてると、すべてを奪われるぞ」
蓮が横に立ち、低い声で警告する。
「……ええ。でも……」
朱音は、痛む肩をさすりながら、不思議な高揚感を感じていた。
ぶつかれば痛い。文句があれば大声で怒鳴り合う。相手の存在が、痛いほどに伝わってくる。
ふと、朱音の視線が広場の片隅で立ち止まった。
ドラム缶の炎の傍らで、数人の若者と老人が、何かを囲んで激しく議論を交わしている。
彼らの手元にあったのは、旧時代の木製の楽器――アコースティック・ギターだった。
「だから、このピックアップの配線を、ジャックのここにハンダ付けすれば、アンプから音が出るはずなんだよ!」
「馬鹿、抵抗値が違う。そのまま繋いだら耳がぶっ壊れるぞ」
老人が、鼻を突く松脂の匂いを漂わせながら、熱したハンダゴテを回路に押し当てている。ジュッ、という音と共に白い煙が上がり、若者が火傷しそうになって「熱っ!」と手を引っ込めた。
ジャァァン、と。
不意に、若者が錆びた弦を荒々しく弾いた。
チューニングの狂った、ひどく不協和音の混じる音。アンプの接触が悪く、ガリガリという不快な電気音が混じっている。
「……あははっ! 全然駄目じゃねえか!」
「うるせえ! もう1回バラして繋ぎ直すぞ!」
失敗した。
なのに、彼らは腹を抱えて大声で笑い合っていた。
朱音は、その光景から目が離せなかった。
不格好な包帯の巻かれた自分の左手を、そっと握りしめる。
「……どうした?」
立ち止まった朱音を振り返り、蓮が眉をひそめた。
「ううん」
朱音は首を横に振った。
街の匂い。煙の熱気。人々の体温。
ここは、システムから見捨てられたエラーたちのゴミ捨て場。
だが朱音には、この混沌とした汚らしい街並みが、地上の白亜の無菌室よりもずっと、生きるに値する美しい場所に見えた。




