第十二話:忘れられたスクラップ・タウン
澱んだ空気に、変化が生じ始めた。
カビと鉄錆の匂いに混じって、焦げた獣の脂のような匂いと、鼻腔の奥をツンと刺す煙たさが漂い始めたのだ。無臭の市街地では決して嗅ぐことのない、有機物が燃焼する匂い。
そして、完全な静寂だった空間に、かすかな振動が混ざり始める。
「……着いたぞ」
蓮が、巨大な防護扉の残骸を潜り抜けながら低く呟いた。
朱音がその背中に続き、崩落したコンクリートのアーチを抜けた瞬間。
彼女の網膜を、強烈な色彩と音が殴りつけた。
「う、そ……」
広大な地下の空洞。かつて旧時代の地下鉄のジャンクションか、退避壕だったのだろう。見上げるほど高いドーム状の天井の下に、数え切れないほどのバラックが、巨大な菌糸のようにびっしりと群生していた。
トタン板、ひしゃげたコンテナ、旧時代の車両の残骸、錆びた鉄パイプ。それらを無計画にツギハギして組み上げられた街並み。完璧な左右対称も、統一された配色も、微塵もない。
街のあちこちで、ドラム缶の中で赤々とした炎が燃え盛っている。
不規則に揺らめくオレンジ色の光が、無数の影を壁に投射し、生き物のように蠢かせていた。ところどころで明滅する旧式のネオン管が、毒々しい紫や緑の光を撒き散らしている。
そして何より、朱音を圧倒したのはその「音」だった。
「どけ! 鉄骨通るぞ!」
「馬鹿野郎、そっちのバルブは締めるなって言っただろ!」
「あはははっ! お前、顔真っ黒じゃねえか!」
鼓膜を直接震わせる、無数の人間の声。
エデンでは、他者の不快な声や騒音は、ノイズキャンセリング機能によって自動的に「穏やかなせせらぎの音」や無音へと変換されていた。物理的な音波が、そのまま他者の耳に届くことなどなかったのだ。
怒号、大笑い、誰かの激しい咳き込み、鉄が打ち付けられる金属音。
何一つフィルタリングされていない音が、朱音の脳髄を直接揺さぶる。
蓮に促されるまま、泥だらけのメインストリートへ足を踏み入れた。
すれ違う人々は皆、油汚れと泥にまみれたボロボロの衣服を纏っていた。片足を引きずっている老人、顔の半分に火傷の跡がある青年、栄養状態が悪く痩せ細った子供。
システムから弾き出された、不揃いな人間たち。
だが、彼らの瞳には、地上の従順な市民たちがとうに失ってしまったギラギラとした光が宿っていた。
ドンッ!
「っと、わりぃ!」
大きな荷物を抱えた男が朱音の肩にぶつかった。
エデンであれば、接触の数秒前にシステムがアラートを鳴らし、互いの筋肉を自動制御して回避する。だがここでは、物理的な質量がそのまま肉体を打ち据えた。
肩に鋭い痛みが走る。朱音が顔をしかめると、男はニカッと歯の欠けた口を開けて笑い、雑踏へ消えていった。
ぶつかれば痛い。文句があれば大声で怒鳴り合う。
ひどく非効率で野蛮なやり方だ。だが、相手の存在が痛いほどに伝わってくる。
——その時、朱音は気づいた。
街の視線が、変わっている。
最初にぶつかった男は笑ってくれた。だが、その先の路地に入るにつれ、人々の目つきが変化していく。作業の手を止め、こちらを見る。何人かは、露骨に舌打ちをした。
「……蓮が誰か連れてきたぞ」
「見ろよ、あの服」
「グレーだ。上の市民服だよ」
囁き声が、雑踏の隙間から刺さってくる。
朱音は、自分の格好を見下ろした。泥と雨で汚れきってはいるが、生地はエデン支給のシームレスウェアのままだ。この街の誰も持っていない、あまりにも上等な布。
「蓮!」
行く手を、一人の中年の男が塞いだ。
角材を手にしている。作業道具のようにも、そうでないようにも見えた。
「そいつ、どこの誰だ」
「地上から降りてきた。追われてる」
「そんなことは見りゃ分かる。俺が訊いてんのは、そいつが何をやってた人間かってことだ」
男の目が、朱音の首元へ向いた。
そこには、市役所職員の識別コードが刺繍されている。剥がす暇などなかった。
男の顔から、表情が消えた。
「……住民感情管理課」
周囲がざわめいた。
誰かが、乾いた声で言った。
「パッチを打つ側だ」
空気が、変わった。
さっきまで談笑していた男たちが立ち上がる。ドラム缶の炎の向こうで、何人かが工具を握り直す音がした。
「うちのカミさんは」
角材を持った男が、一歩踏み出した。
「三年前、子供を流産した。泣いてた。三日三晩泣いてた。……四日目にあんたらの窓口に行って、笑って帰ってきた」
男の声は、震えていなかった。震えないよう、長い時間をかけて訓練された声だった。
「今でも笑ってるよ。子供のことなんて、最初からいなかったって顔でな。……あんた、何人にそれをやった」
朱音は、答えられなかった。
数えていなかったからだ。数える必要のない業務だったからだ。
「……七百二十六人よ」
自分の口から出た数字に、朱音自身が驚いた。
覚えていた。数えていないつもりで、全部、覚えていた。
「今朝も一人。硬いものを噛みたいって泣いてた男の人。私が承認した」
場が、静まり返った。
男の握った角材が、ミシリと鳴った。
「やめとけ」
蓮が、朱音の前に立った。
大柄でも屈強でもない、まだ細い背中だった。だがその背中は、一歩も引かなかった。
「こいつは、上の紙台帳を読んだ。花束の搬送先を知ってる」
ざわめきが、一瞬で凍った。
「……搬送先だと」
「あぁ。ここじゃ話さねぇ。……ヒロさん、あんたのとこの婆さんに話を通してくれ。俺が保証する」
角材を持った男——ヒロと呼ばれた男は、しばらく朱音を睨みつけていた。
やがて、地面に唾を吐き、角材を下ろした。
「保証、ね。……蓮、お前まだ十九だろうが。人一人の命を保証できる歳かよ」
「歳は関係ねぇ」
「関係あるんだよ、ここじゃな」
男は背を向け、去り際に言った。
「言っとくぞ、管理官さん。ここは楽園じゃない。飯も、燃料も、薬も足りてない。……あんた一人ぶんの飯は、誰か一人ぶんの飯だ。覚えとけ」
人だかりが、ゆっくりと散っていく。
朱音は、その場に立ち尽くしていた。
ドラム缶の炎が、パチリと爆ぜる。
広場の片隅では、数人の若者が古い木製の楽器を囲んで、何かを激しく議論していた。ハンダゴテの白い煙が上がり、誰かが「熱っ!」と手を引っ込める。
ジャァァン、と錆びた弦が荒々しく鳴った。ひどい不協和音だった。
「……あははっ! 全然駄目じゃねえか!」
「うるせえ! もう一回バラして繋ぎ直すぞ!」
失敗して、腹を抱えて笑っている。
朱音は、その光景から目が離せなかった。
その笑い声のすぐ隣で、痩せた子供が母親に何かをねだり、母親が首を横に振っていた。
朱音の耳に、その声も、同じ音量で届いていた。
「行くぞ」
蓮が、短く言った。
「婆さんのところだ。……この街で、あんたを殺すか生かすか決められるのは、あの人だけだ」




