第十二話:缶詰の味と、地下の歩き方
どれほどの時間、暗闇の底を歩き続けたのか、朱音には分からなかった。
エデンに接続されていた頃は、視界の右上に常に最適化された現在時刻と、目的地への最短ルート、消費カロリーの予測値が表示されていた。だが今は、そのすべてが失われている。
頼るべきナビゲーションも、疲労を散らすパッチもない。自分の足が濡れたコンクリートを擦る鈍い音と、時折響く地下水脈の轟音、そして自らの浅く荒い呼吸音だけが、今の朱音を取り巻く世界のすべてだった。
エデンの市街地は、どこを歩いても摩擦のない平滑な素材で舗装されていた。少しでも傾斜があれば、自動で動く歩道が市民の足の負担を肩代わりした。移動という行為すら、システムにとっては「目的地に到達させるための処理」に過ぎず、市民はただ結果としてそこに運ばれるだけだった。
だが、ここは違う。
剥き出しの鉄筋が牙のように飛び出した瓦礫、不規則に陥没した床、足首まで浸かる泥水。一歩踏み出すたびに、足の裏から予想外の衝撃が脳へと伝達される。歩幅を一定に保つことすら許されない。
朱音の肉体はすでに限界を迎えつつあった。太ももの筋肉は焼けるように痛み、関節は油の切れた機械のようにきしむ。空腹はもはや限界を通り越し、胃袋が自身の内壁を消化し始めているのではないかという錯覚に陥るほど、鋭利で暴力的な痛みを腹部の中心に発生させていた。
「……ここで少し休む」
不意に、数歩先を歩いていた蓮が立ち止まった。
そこは、巨大な配水管の影に隠れた、比較的乾燥した踊り場のような空間だった。天井を這う古いパイプの隙間から、微かに外気らしき気流が流れ込んでいる。
蓮は無言のまま、肩にかけていた薄汚れた布製のバッグを床に下ろした。そして、その中から無造作に「何か」を取り出して、朱音の足元へ放った。
ゴトッ、とひどく重い金属音がして、それはコンクリートの上を転がり、朱音の爪先で止まった。
円柱形の、くすんだ銀色の塊。
表面には色褪せて破れかけた紙のラベルが貼られており、かろうじて旧時代の言語で「黄桃」と印字されているのが読めた。エデンの市民は、固形物を咀嚼しない。チューブから抽出される無機質なペーストが食事のすべてであり、食物が物理的な「容器」に封入されているという概念自体が、とうの昔に廃棄された非効率だった。
「……なに、これ」
「飯だ。食わなきゃ、ここから先は動けなくなる」
蓮はバッグの底から、さらに小さな金属の器具を取り出し、座り込んだ朱音の目の前へ差し出した。
掌に収まるほどのサイズ。先端が鋭く尖り、歯車のようなものがついた無骨な道具。
「缶切りだ。使い方は分かるか」
「缶、切り……?」
「そうだ。エデンのように、口を開けて待ってれば最適な栄養が流し込まれるわけじゃねぇ。ここでは、自分の飯は自分の手でこじ開けるんだよ」
突き放すような、冷たい声だった。
先ほど怪我の手当てをしてくれた時の、あの不器用な温もりは欠片もない。彼は暗に「システムに頼り切ったまま思考を止めるなら、ここで死ね」と告げていた。
朱音は震える指で、その「缶切り」を受け取った。冷たく、ずしりと重い。
不格好な包帯が巻かれた左手で、重い金属の円柱を床に押さえつける。
鋭利な刃先を、缶の縁に当てる。
エデンの生活では、市民が決して刃物に触れることなどなかった。すべての怪我の要因はシステムによって事前に排除され、料理という概念自体が存在しない世界では、指先を傷つけるリスクすら徹底的に管理されていた。
手元が狂えば、この刃先は簡単に自分の肉を裂く。
ただ「食事をしてカロリーを摂取する」という結果を得るためだけに、なぜこれほどの恐怖と、体力を消費する非効率なプロセスを経なければならないのか。
ガリッ、と鈍い音がして、刃がわずかに金属に食い込んだ。
朱音は奥歯を噛み締め、右手に体重をかける。
硬い。反発する金属の強烈な抵抗が、疲労しきった腕の筋肉をきしませる。
ギコッ、ギコッ。
不格好な動作で、少しずつ、ミリ単位で金属の蓋を切り裂いていく。押し込むたびに、包帯を巻いた左手には熱を持った痛みが走り、額からはべっとりとした脂汗が滲み出た。
頭がくらくらする。空腹で指先の力が入らない。それでも、朱音は考えることをやめなかった。どうすれば刃が滑らないか。どの角度で力を入れれば金属が切れるのか。エデンに奪われていた「自ら思考し、行動を修正する」というプロセスが、痛みと飢えの中で強制的に再起動させられていく。
一周の半分ほどを不揃いに切り裂いたところで、不意に、めくれ上がった金属の隙間からとろりとした黄金色の液体が溢れ出した。
強烈な、暴力的なまでの甘い匂いが、カビと錆びついた地下の空気を一瞬で塗り替えた。
エデンが提供する、脳の報酬系を適度に刺激するだけの「計算された風味」ではない。果実の糖分が極限まで濃縮された、むき出しのカロリーの匂いだった。
「……っ」
朱音は缶切りを持つ手を止め、ギザギザになった金属の隙間から、その黄金色の液体を指ですくい取った。
缶の切り口で指を切るかもしれないという恐怖。指先にベタベタと張り付く、不快な糖分の感触。すべてが非効率で、不潔で、危険だった。
震える指先を、ゆっくりと口に運ぶ。
泥と血の味が混ざった舌に触れた瞬間。
脳髄を直接殴りつけられたような、強烈な衝撃が走った。
甘い。
あまりにも、暴力的すぎるほど甘い。
粘膜を焼くような強烈な糖分の波が、飢餓状態で干からびた細胞一つ一つに爆発的に浸透していく。そして、その強烈な甘みの奥底に、微かなブリキの鉄の味と、古い金属の匂いが混ざり込んでいた。
決して「洗練された味」ではない。
エデンの最適化された味覚アルゴリズムからすれば、不純物が多すぎると即座にエラー判定されるような、粗野で泥臭い味。
なのに、朱音の目からは、とめどなく涙が溢れ出していた。
「……おいしい」
しゃくり上げながら、朱音は言った。
ギザギザの蓋を無理やり指で押し広げ、中に入っていた柔らかい黄桃の果肉を、泥で汚れた指で直接掴み出し、貪るように口へ押し込む。
果肉の繊維を、自分の奥歯で噛み砕く。
甘い汁が口の周りを汚し、顎を伝って衣服に落ちる。エデンなら即座に|クリーニング・プロトコル《潔癖な洗浄》が起動するような惨状だが、朱音は構わず咀嚼を続けた。指についたシロップまで、音を立てて舐めとる。
自らの手で危険な金属をこじ開け、痛みと恐怖を乗り越え、時間をかけてようやく得たカロリー。
過程をすっ飛ばして一瞬で与えられる無機質な結果ではなく、自分の肉体と思考を費やして手に入れた、確かな生の実感。
こんなにも不便で、不格好で、非効率な手作業が、これほどまでに人間の魂を満たすものだとは知らなかった。
蓮は壁に背を預けたまま、無言で朱音のその姿を見下ろしていた。
やがて、彼自身の泥だらけの指でマッチに火を灯し、短く息を吐く。
「……ここはシステムに管理されてない。誰も答えを運んじゃこないし、結果だけを口に入れてくれる便利な神様もいねぇ」
蓮の横顔は、炎に照らされてひどく険しかったが、その声の底には、微かな共鳴のようなものが滲んでいた。
「自分の飯は自分でこじ開けろ。自分の足で歩け。……それが、ここでのルールだ」
「ええ……」
朱音は、ベタベタになった口元を手の甲で拭い、顔を上げた。
涙と泥と糖分でぐちゃぐちゃになった顔で、蓮の漆黒の瞳を真っ直ぐに見返す。
「わかってる。……もう二度と、口を開けて待ってたりしない」
それは、システムへの完全な決別宣言だった。
朱音は、残った黄金色のシロップを最後の一滴まで飲み干した。
胃袋に落ちた重く熱い不純物の塊が、生きるための膨大なエネルギーとなって、冷え切った血管を駆け巡り始めていた。エデンに管理されていた頃よりもずっと、自分の心臓が強く、確かに脈打っているのを感じる。
彼女はゆっくりと立ち上がり、暗闇の先へと続く道を、自らの意志で見据えた。




