罪なやつさ あ〜パシフィック
罪なやつさ あ〜パシフィック
ケイコ「サキさん、この歌……『俺は罪なやつさ』って、どういう意味なんでしょう?」
サキ「その言葉、気になる?」
ケイコ「はい。自分で自分のことを『罪なやつ』なんて言うでしょうか」
サキ「普通は言わないね。よほど自分で分かっているんだよ。誰かを傷つけたって」
ケイコ「誰かって……?」
サキ「昔の女だよ」
ケイコ「最初の奥さん?」
サキ「そう。まだ何者でもなかった頃から、一緒にいた女さ」
ケイコ「売れない頃から?」
サキ「そう。金もない。仕事もない。これからどうなるかも分からない。そんな時代を一緒に過ごした女だよ」
ケイコ「その男が、だんだん成功していく」
サキ「そして、男の人生が変わっていく」
ケイコ「女との関係も?」
サキ「そうだね」
ケイコ「でも、別れたんですよね」
サキ「うん」
ケイコ「それなのに、どうして歌にするんでしょう?」
サキ「別れたからじゃないかな」
ケイコ「え?」
サキ「一緒にいるときは分からないんだよ。隣にいることが当たり前だから。でも、いなくなって初めて、その女が自分の人生にどれほど大きかったか分かることがある」
ケイコ「……」
サキ「しかも、この男の場合は、ただ別れただけじゃない」
ケイコ「二番目の奥さん……」
サキ「そう」
ケイコ「そして、その人との間に子供ができた」
サキ「そういうことだね」
ケイコ「……それは、最初の奥さんにはきついですね」
サキ「きついだろうね」
ケイコ「自分は何もない頃から一緒にいた。でも、男が成功して、自分とは別れて、別の女との間に子供ができる……」
サキ「人生って、皮肉だよ」
ケイコ「それで、『俺は罪なやつさ』」
サキ「私は、そこに男の自覚があるように思うんだ」
ケイコ「自分が傷つけたことを?」
サキ「そう。悪かったと思っている。でも、もう元には戻れない」
ケイコ「謝れば済むことでもない」
サキ「そうだね」
ケイコ「だったら、歌にするしかない?」
サキ「男って、直接謝るより、歌にしてしまうほうが楽なことがあるからね」
ケイコ「それは、ちょっとずるいですね」
サキ「うん。ずるい」
ケイコ「歌にしてしまえば、自分の気持ちだけはきれいにできますから」
サキ「だから『罪なやつ』なんだよ」
ケイコ「……」
サキ「本当に忘れてしまったなら、こんな歌は歌わない。忘れられないから歌うんだ」
ケイコ「じゃあ、この歌はラブソングじゃない?」
サキ「私には、懺悔に聞こえるね」
ケイコ「懺悔……」
サキ「昔の女に向かって、『俺は罪なやつさ』と言っている」
ケイコ「でも、その男は、その後も生きていく」
サキ「もちろん」
ケイコ「新しい家庭も作って、子供もできて」
サキ「それでも、昔の女との時間は消えない」
ケイコ「……男って、勝手ですね」
サキ「勝手だよ」
ケイコ「でも……」
サキ「でも?」
ケイコ「その勝手さを、自分で『罪』だと分かっているだけ、まだ救いがあるのかもしれませんね」
サキ「そうかもしれないね」
サキは、もう一度レコードを聴く。
サキ「だから私は、この一言が好きなんだよ」
ケイコ「『罪なやつさ』」
サキ「そう。たった一言で、その男の過去が全部見えてくる」
ケイコ「サキさん。もう一つ、気になるところがあります」
サキ「何?」
ケイコ「『ああ、太平洋』っていうところ」
サキ「そこか」
ケイコ「はい。どうして急に太平洋なんです?」
サキ「それはね……この歌が発表された時期を考えると面白いんだよ」
ケイコ「時期?」
サキ「この男、まだ成功していないんだ」
ケイコ「え?」
サキ「日本でスターになった後の歌じゃない。まだ何者になるか分からない時代だよ」
ケイコ「まだ売れていない?」
サキ「そう」
ケイコ「それなのに、太平洋?」
サキ「そこが、この男の大きさなんだよ」
ケイコ「どういうことです?」
サキ「普通なら、まず日本で成功したいと思うだろう」
ケイコ「当然ですよね」
サキ「ところが、この男は、その先を見ている」
ケイコ「アメリカ?」
サキ「そう。太平洋を越えて、アメリカへ行く」
ケイコ「まだ日本で成功していないのに?」
サキ「そうだよ」
ケイコ「ずいぶん大きな夢ですね」
サキ「夢というより、野望だね」
ケイコ「日本で売れることが目標じゃない」
サキ「日本で売れるのは途中なんだよ」
ケイコ「その先にアメリカがある」
サキ「そう」
ケイコ「だから、太平洋」
サキ「日本とアメリカの間にある海だ」
ケイコ「ただの海じゃない」
サキ「この男にとっては、壁だよ」
ケイコ「越えなきゃならない壁」
サキ「そう。まだ何者でもない男が、その壁の向こうを見ている」
ケイコ「……面白いですね」
サキ「成功してから、『アメリカへ行く』と言ったんじゃない」
ケイコ「成功する前から?」
サキ「成功する前から」
ケイコ「じゃあ、この男は、自分が成功すると信じていた?」
サキ「少なくとも、成功した自分を想像していたんだろうね」
ケイコ「誰にも分からない未来を」
サキ「本人だけが見ていた」
ケイコ「『ああ、太平洋』……」
サキ「その一言には、日本から飛び出していく男の姿がある」
ケイコ「そして、アメリカで成功する」
サキ「そう」
ケイコ「すごい野望ですね」
サキ「でもね、ケイコ」
ケイコ「はい」
サキ「その野望を追いかけるということは、何かを置いていくということでもある」
ケイコ「……最初の奥さん?」
サキ「それもある」
ケイコ「家庭も」
サキ「そう」
ケイコ「だから第一話の『俺は罪なやつさ』につながる」
サキ「そうなんだよ」
ケイコ「『罪なやつさ』と言いながら、『ああ、太平洋』と歌う」
サキ「一人の男の中に、二つの顔があるんだよ」
ケイコ「罪を知っている男と、夢を追いかける男」
サキ「そう」
ケイコ「過去を振り返る男と、未来を見ている男」
サキ「その両方が、同じ男の中にいる」
ケイコ「だから、この歌は面白いんですね」
サキ「そう。まだ成功していない男が、自分の未来を歌っている。そして、その未来へ進むために、何かを失うことになる」
ケイコ「太平洋を越えるために」
サキ「うん」
ケイコ「……なんだか、この男の人生そのものみたい」
サキ「歌って、そういうものなんだよ」
ケイコ「本人はそこまで考えていたんでしょうか」
サキ「さあね」
ケイコ「考えていなかった?」
サキ「いや。たぶん、考えていたと思うよ」
ケイコ「どうして?」
サキ「まだ何者でもない男が、太平洋を歌にするんだ。普通は、そこまで遠くを見ない」
ケイコ「……」
サキ「だから私は思うんだ」
ケイコ「何を?」
サキ「この男は、最初から自分の人生を大きくするつもりだったんじゃないかな」
ケイコ「日本だけじゃない」
サキ「日本だけじゃない」
ケイコ「太平洋の向こうまで」
サキ「そう。そこに、この男の野望があるんだよ」




