フランソワーズ・サガン――父の影を追い続けた人生
### フランソワーズ・サガン――父の影を追い続けた人生
フランソワーズ・サガンの小説を読んでいると、いつも一人の男の影が見えてくる。
それは、父ピエール・クォワレズである。
サガンは1935年、フランソワーズ・クォワレズとして生まれた。父は北フランスの産業界につながる家の出身で、裕福な家庭を支えた人物だった。サガンは父から「キキ」と呼ばれ、自由を許された少女として育った。([IMEC][2])
そして18歳で『悲しみよこんにちは』を書いた。
そこに登場する父レイモンは、女性に囲まれ、恋愛を楽しみ、娘にも自由を与える男である。
もちろん、レイモン=ピエールと単純に断定することはできない。
しかし、若いサガンが描いた「自由な父親」の姿には、現実の父親の影が感じられる。
興味深いのは、それで終わらなかったことである。
サガンは、その後も小説の中で、成熟した男、自由な男、女性を束縛しない男を繰り返し描いていく。
その代表的な一人が、『ブラームスはお好き?』のロジェである。
ここで私は以前、ポールとロジェを取り違えてしまった。
ポールは39歳の女性である。
彼女には長く付き合っているロジェがいる。
ロジェはポールを愛している。しかし、彼女だけに縛られることはない。ほかの女性とも関係を持つ。それでもポールは、若いシモンから激しい愛情を受けながら、最後にはロジェのところへ戻っていく。([Artikel33][3])
ここがサガン文学の面白いところである。
若いシモンは、ポールを純粋に愛する。
しかしロジェには、シモンにはないものがある。
成熟。
余裕。
自由。
そして、女を完全には所有しようとしない距離感。
それは、サガンが少女時代に父親から受け取った「自由」という感覚と、どこか重なっている。
サガンにとって、愛とは相手を完全に自分のものにすることではなかったのかもしれない。
むしろ、愛していても自由でいられること。
相手を束縛しないこと。
束縛されないこと。
その男性像の原点に、父ピエールがいたのではないか。
サガンは父に愛された。
そして父から自由を与えられた。
だからこそ、彼女の文学には「自由な男」が何度も登場する。
父親が直接、小説の中に現れることもある。
しかし、別の作品では、父の面影は恋人や愛人という形に変わる。
名前が変わる。
年齢が変わる。
立場が変わる。
それでも、「自由を与える男」という原型だけは残る。
そう考えると、サガンの恋愛小説は、単なる男女の恋愛物語ではなくなる。
そこには、少女時代に愛した父親への記憶が流れている。
だから「ファザコン」という言葉だけで片づけてしまうと、サガンの文学の本質を見失ってしまう。
彼女は父親を愛していた。
そして、その父親から受け取った男性像を、一生かけて小説の中で再現していった。
現実の人生では、二度結婚した。
1958年に出版人ギ・シェレールと結婚し、1960年に離婚。その後、1962年にアメリカ人モデルのロベール・ウェストホフと結婚し、息子ドゥニをもうけた。([ラジオフランス][4])
しかし、現実の夫は父親ではない。
息子も父親ではない。
ここに、サガンの人生の難しさがあったのではないか。
小説なら、理想の男を作ることができる。
自分を自由にしてくれる男を描くことができる。
しかし現実の夫婦には生活があり、現実の親子には責任がある。
父親から与えられた自由を愛した女性が、家庭という現実の中で、その自由とどう折り合うのか。
そこに、サガンの孤独があったのではないだろうか。
彼女は生涯、恋愛を続けた。
車を愛し、酒を飲み、賭博をし、金を使い、常識から外れた人生を送った。
フランス文学界では「自由」の象徴のような存在になった。([Le Monde.fr][5])
しかし、その自由の原点をたどっていくと、一人の父親に行き着く。
娘に自由を与えた父。
その父を愛した少女。
そして、その少女が大人になり、今度は小説の中で「自由な男」を探し続ける。
『悲しみよこんにちは』のレイモン。
そして『ブラームスはお好き?』のロジェ。
もちろん、二人が同じ人物だという意味ではない。
しかし、その背後にある男性像には、共通するものがある。
**女を愛する。
しかし女に所有されない。
そして、女にも自由を与える。**
それは、サガンが愛した父親の記憶から生まれた男性像だったのではないか。
サガンは父から自由をもらった。
しかし、その父の影からは、最後まで自由になれなかった。
だから彼女は、小説を書いた。
父を男たちに変え、恋人たちに変え、そして何度も何度も、その男たちを女性の前に立たせた。
サガンの小説を読むということは、もしかすると、**彼女が一生かけて父親の面影を探し続けた軌跡を読むことなのかもしれない。**




