サガンを支配した父の影
### サガンを支配した父の影
フランソワーズ・サガンの人生を考えるとき、私はどうしても「父」という存在から離れられない。
彼女は父に愛された。
そして、父から自由を与えられた。
それは幸福な少女時代だったに違いない。
しかし、人間にとって、幸福だった記憶ほど、その後の人生を支配するものはない。
サガンは、その後も自由な男を求め続けた。
恋愛をしても、結婚をしても、彼女の中には「父に似た男」のイメージが残っていたのではないか。
自分を束縛しない。
経済的にも精神的にも余裕がある。
女性を愛するが、女性だけに人生を預けない。
そして、どこか遠くにいる。
サガンの小説に繰り返し登場する男たちを見ていると、そんな男性像が浮かんでくる。
それは恋人を求めているようで、実は少女時代に愛した父親の姿を探していたのではないか。
いわゆる「ファザコン」という言葉で簡単に片づけてしまえば、それまでである。
しかし、サガンの場合、それはもっと文学的な問題だったように思う。
彼女は父親を忘れられなかった。
忘れられないどころか、父親の姿を小説の中で何度も再生した。
父親に似た男を描き、その男を若い女に愛させた。
そして、その女は男を完全には所有できない。
ここにサガン文学の繰り返される悲しさがある。
『悲しみよこんにちは』のレイモンから、その後の作品に現れる男たちまで。
姿は変わっても、サガンが求めた「男の原型」は変わらなかったのではないか。
ところが現実の人生では、文学のようにはいかない。
夫は父親ではない。
息子も父親ではない。
現実の家族は、互いに自由であると同時に、責任も要求する。
恋人なら別れることができる。
小説の男なら、作者の思い通りに動かすことができる。
しかし、夫や子供との関係はそうはいかない。
そこに、サガンの人生の難しさがあったのではないか。
彼女は二度結婚している。
しかし結婚生活はいずれも長く続かなかった。
そして一人息子ドゥニとの関係も、必ずしも近しいものではなかったと伝えられている。
サガンにとって、家族というものは、恋愛ほど自由ではなかったのかもしれない。
父親から与えられた「自由」を愛した女性が、家庭を持ったとき、その自由と家庭生活との間に大きな矛盾が生じる。
夫に父親の代わりを求めることはできない。
息子に父親の代わりを求めることもできない。
だから彼女は、現実の家族よりも、小説の中の男たちのほうが居心地がよかったのではないか。
これは、サガンを批判するための話ではない。
むしろ、彼女の孤独を理解するための話である。
父に愛された少女は、その愛を一生忘れなかった。
そして、その記憶を恋愛と文学に変えていった。
『悲しみよこんにちは』で父を描き、その後も父の面影を持つ男たちを描き続けた。
しかし、文学の中では父の面影を追い続けられても、現実の人生では、夫も息子も父ではない。
その違いが、彼女の人生に孤独をもたらしたのではないか。
サガンは「愛される女性」であり続けた。
多くの男たちと恋をした。
世界的な作家になり、大金を手にし、豪華な生活を送り、酒や車や賭博を愛した。
それでも、その華やかな人生の奥に、一人の少女がいた。
父親に愛された少女。
そして、その父親の姿を、人生の中でも、文学の中でも探し続けた少女。
だから私は、サガンの人生を「自由奔放な女性作家」という一言だけでは片づけたくない。
彼女の自由の根には、父親から与えられた自由があった。
そして、その自由の裏側には、父親を失いたくないという、少女の深い愛着があった。
**サガンは父から自由をもらった。
しかし、その父の影からは、一生自由になれなかった。**
そこに、フランソワーズ・サガンという作家の最大の魅力と、最大の孤独があったのではないだろうか。




