50歳になった独身女性が長年暮らした家を出ていく
50歳になった独身女性が長年暮らした家を出ていく
朝、母親が目を覚ますと、娘の部屋のドアが少し開いていた。
「まだ寝ているのかしら」
そう思って、そっと覗いた。
ベッドはきれいに整えられていた。
机の上には、五十年間使ってきた小さな裁縫箱と、古いアルバムが一冊置かれていた。
そして、便箋が一枚。
「お母さんへ。
今日、家を出ます。
心配しないでください。
五十歳になったので、もう遅いと思うかもしれないけれど、私には今日が一番早い日です。
今までありがとう」
それだけだった。
母親は、便箋を持ったまま台所へ行った。
父親は新聞を読んでいた。
「ねえ」
「なんだ」
「この子、家を出るんだって」
父親は新聞から顔を上げた。
「どこへ?」
「書いてないわ」
二人はしばらく黙った。
娘は五十歳。
若いころから縁談はいくつもあった。
しかし、どれも長続きしなかった。
会社勤めをしながら家に帰り、母親の買い物を手伝い、父親の薬を取りに行った。
気がつけば、友人たちは結婚し、子どもを育て、やがて孫の話をするようになっていた。
娘だけが、いつまでも同じ家の同じ部屋にいた。
近所の人は、彼女を「しっかりした娘さん」と呼んだ。
母親は、それを褒め言葉だと思っていた。
けれど娘は、ある夜、鏡の前で自分に言った。
「私は、誰かの娘で終わるのかな」
その翌朝、五十歳の誕生日だった。
娘は会社を辞めた。
そして、小さなアパートを借りた。
荷物は段ボール三箱。
服と本と、古いアルバム。
母親からもらった指輪は、左手の薬指ではなく、右手の小指につけた。
駅へ向かう道で、彼女は一度だけ振り返った。
生まれてから五十年間、見慣れていた家だった。
窓も、屋根も、玄関の植木鉢も変わらない。
変わったのは、自分だった。
駅のホームに立つ。
電車が入ってくる。
彼女は小さく息を吸った。
五十歳。
遅すぎる出発だと思っていた。
だが、電車のドアが開いた瞬間、不思議なことにそうは思わなかった。
むしろ、
「間に合った」
そんな気がした。
彼女は誰にも見送られず、電車に乗った。
そして、生まれて初めて、
自分のためだけの場所へ向かった。




