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フェイドアウト断章  作者: 石藏拓(いしくらひらき)


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妻と結婚して九十日目に、男は自分の葬式の準備を始めた。

妻と結婚して九十日目に、男は自分の葬式の準備を始めた。


黒いスーツを出した。


ネクタイも用意した。


誰かの葬式に着ていくためではない。


自分自身が、棺の中に入るための服だった。


男は五十七歳だった。


母親を亡くしてから、ひとりで暮らしていた。


長年乗っていた個人タクシーを売ったのも、もう一人で生きる必要がなくなると思ったからだった。


「家族が欲しいんだ」


友人に、男はそう言った。


金が欲しいわけではない。


若い妻が欲しいわけでもない。


ただ、家に帰ったとき、


「おかえり」


と言ってくれる人が欲しかった。


そして、死ぬまで自分の味方でいてくれる人が欲しかった。


そんな男の前に現れたのが、ベトナム人の女性だった。


三十歳近く年下だった。


友人から見せてもらった写真の中で、女は笑っていた。


男は、その笑顔を見て結婚を決めた。


初めてベトナムへ行った日、二人は対面した。


言葉は十分に通じなかった。


それでも男は迷わなかった。


ベトナムで結婚式を挙げた。


男は、ようやく家族ができたと思った。


ところが、その夜だった。


男は初めて、妻の身体にいくつもの入れ墨があることを知った。


知らされていなかった。


さらに、妻の健康診断に関しても、男が知らなかった問題が明らかになった。


友人は言った。


「やめたほうがいい」


男は首を横に振った。


「もう結婚したんだ」


「まだ間に合う」


男は少し黙ってから答えた。


「俺には、もうこの人しかいない」


妻はベトナムから男の国へやって来た。


しかし、二人の生活は一週間も経たないうちに崩れ始めた。


妻は別の部屋で寝るようになった。


「ベトナムへ帰りたい」


そう言うこともあった。


男が理由を尋ねても、妻は答えなかった。


ある夜、二人は激しく口論した。


翌朝、男の顔には青い痣があり、腕には引っかき傷が残っていた。


友人が尋ねた。


「殴られたのか?」


男は小さく頷いた。


「寝ていたら、突然だった」


「警察には?」


「行った」


「どうなった?」


男は苦笑した。


「夫婦喧嘩だって」


その後、妻は家を出た。


そして男は、また一人になった。


母親が死んだときと同じ静けさだった。


ただ、今度は一度だけ、その静けさから抜け出せたと思っていた。


だからこそ、戻ってきた孤独は深かった。


夜になると、男は誰もいない部屋で携帯電話を握った。


電話をかける相手はいなかった。


食卓には、一人分の皿しかない。


ある夜、男は机に向かった。


白い紙を一枚置いた。


最初に書いたのは、妻への恨みではなかった。


母親の名前だった。


そして、その下に、


「俺は家族が欲しかった」


と書いた。


その後、男は何度か自ら命を絶とうとした。


病院へ運ばれたこともあった。


しかし、ある日、救急車の中で心臓が止まった。


結婚式から、九十日目だった。


男の死後、ベトナム人の妻は国に帰らなかった。


弁護士を通じて、残された財産について確認を始めた。


その話を聞いた友人は、しばらく何も言えなかった。


ただ、一枚の写真だけが手元に残った。


ベトナムでの結婚式の写真だった。


男は笑っていた。


隣の妻も笑っていた。


二人の間にあるのは、まだ何も知らない未来だけだった。


友人は写真を裏返した。


結婚式の日付が書かれていた。


その日から、わずか九十日。


友人は、あの日男が用意した黒いスーツを思い出した。


そして、もう一度写真を表に返した。


男は、今も笑っていた。


写真の中では、まだ一人ではなかった。


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