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フェイドアウト断章  作者: 石藏拓(いしくらひらき)


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死後離婚

緒方凛は、夫の遺影を見ながら、湯飲みに残った冷えた茶をすすった。


葬式が終わってまだ一週間だった。仏壇の線香だけが静かに燃え、古い団地の部屋には、湿った畳の匂いが漂っている。


夫の和也は、二度目の脳梗塞で死んだ。


一度目に倒れた時、医師から「血圧がかなり高い。このままでは危険です」と言われていた。それでも和也は酒をやめなかった。深夜まで飲み歩き、酔って帰宅し、玄関で吐き、翌朝には何事もなかったように煙草を吸った。


「男はストレスがあるんだ」


それが口癖だった。


だが凛から見れば、ストレスを背負っていたのは自分だった。


義母の介護。夫の借金。不倫相手からの無言電話。FXや仮想通貨で消えた金。消費者金融から届く封筒。酔った夫に浴びせられる怒鳴り声。


「お前がやっておけ!」


夫はそう言うだけだった。


義父はすでに他界していた。認知症の義母は昼夜の区別がつかず、夜中に徘徊し、凛を実の娘ではなく介護士の名前で呼んだ。


それでも凛は続けてきた。


結婚とは我慢だと思っていたからだ。


ある夜、和也は派遣社員の若い女と飲み歩いた帰り、駅前で倒れた。そのまま救急搬送され、意識は戻らなかった。


通夜の席で、義姉が泣きながら言った。


「お母さんのこと、これからもお願いね」


凛は返事ができなかった。


義母は施設に入る金もない。年金だけでは足りない。親族は誰も引き取ろうとしない。


だが、自分の人生はどうなるのか。


五十五歳。


気づけば、青春も、中年も、全部誰かの後始末で終わっていた。


数日後、凛は市役所へ向かった。


窓口の女性職員は慣れた様子で紙を差し出した。


「姻族関係終了届ですね」


その言葉を聞いた瞬間、凛は妙な感覚に襲われた。


死後離婚。


最近増えている、とテレビで見たことがあった。法務省の統計では、2024年には四千七百件を超え、十年前のほぼ二倍になったという。


夫が死んでも、義理の家族との関係は自動では切れない。


だから、この紙を出す。


たった一枚で。


凛はペンを持った。


だが、すぐには書けなかった。


和也との二十七年が脳裏を流れた。


若かった頃。小さなアパート。貧しかったが、まだ笑っていた時代。子供ができなかったことを二人で泣いた夜。


あの頃、確かに愛していた。


だが、その記憶の後ろから、酔って怒鳴る声が重なった。


「誰の金で食ってると思ってる!」


凛は静かに署名した。


窓口の女性が確認し、淡々と受理印を押す。


それだけだった。


世界は何も変わらない。


役所の外では、五月の風が吹いていた。


凛は駅前のベンチに座った。


スマートフォンには義姉から何件も着信が入っていたが、もう折り返さなかった。


空を見上げる。


薄い雲が流れている。


その時、凛は初めて、自分の人生に戻った気がした。


長い介護でもなく、夫の機嫌でもなく、義実家でもない。


誰かの妻ではない、自分自身の人生だった。


駅の発車ベルが遠くで鳴った。


凛はゆっくり立ち上がり、小さく息を吐いた。


まるで、長い長い葬式が終わったようだった。


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