『蒸発の男』 第八章 三人目
『蒸発の男』
第八章 三人目
男は、駅へ向かって歩いていた。
手には紙袋。中には、まだ温かい弁当が入っている。仕事帰りだった。どこにでもいる、ごく普通の男だった。
女は人混みの中で、その背中を見失わないように目で追った。
距離は、二十メートルほど。
しかし、その間に人の流れがある。
すれ違う人影、交差する足音、途切れない雑踏。
黒いコートの男は、どこにも見えない。
だが、いる。
女にはわかっていた。
あの男は、必ず標的の近くにいる。
見えないだけだ。
女は早足になった。
視線は、三人目の男から外さない。
男は改札に近づいている。
あと数分で、人の流れに完全に紛れる。
その前に、止めなければならない。
女は声を上げた。
「止まって!」
しかし、男は振り向かない。
聞こえていない。
雑踏に声が消される。
女はさらに速度を上げた。
人にぶつかりながら、前へ出る。
その時だった。
三人目の男の横に、誰かが並んだ。
黒いコート。
突然、そこに現れた。
まるで最初からいたかのように。
女の心臓が強く打った。
「やめて!」
今度は、はっきり届いた。
三人目の男が振り向いた。
同時に、黒いコートの男も、ゆっくりと顔を上げる。
視線が、ぶつかる。
一瞬だけ、時間が止まったように感じられた。
黒いコートの男は、わずかに笑った。
そして、三人目の男の肩に手を置いた。
ただ、それだけだった。
押したわけでもない。
引いたわけでもない。
ただ、触れただけ。
しかし次の瞬間。
三人目の男の姿が、揺らいだ。
輪郭が、ぼやける。
まるで空気に溶けるように。
「だめ!」
女が叫び、手を伸ばした。
距離は、あと数歩。
届くはずだった。
だが。
男の姿は、そのまま消えた。
完全に。
そこには、何も残らなかった。
紙袋だけが、床に落ちた。
中の弁当が、音を立てて崩れた。
周囲の人間は、何も気づかない。
ただ一人分の空間が、最初から存在しなかったかのように埋まっていく。
女は立ち尽くした。
呼吸が浅くなる。
目の前で、三人目が消えた。
完全に。
黒いコートの男が、こちらを見る。
人混みの中で、はっきりと。
そして、小さく口を動かした。
声は聞こえない。
だが、意味はわかった。
「終わりだ」
そう言った。
次の瞬間、男の姿も消えた。
人の流れだけが残る。
女はゆっくりと、その場にしゃがみこんだ。
床に落ちた紙袋を拾う。
まだ温かい。
ついさっきまで、そこにいた証拠。
しかし、その人間はもう存在しない。
記録も、記憶も、やがて消える。
最初から、いなかったことになる。
女は静かに言った。
「……終わってない」
小さな声だった。
だが、はっきりしていた。
女は立ち上がる。
目は、もう迷っていない。
そして、ゆっくりと歩き出した。
黒いコートの男を、追うために。




