第8話 ヘッセン=ダルムシュタット方伯
【ヘッセン=ダルムシュタット方伯視点】
重厚なマホガニーの執務机に、一枚の羊皮紙が乱雑に放り出されていた。
分厚い石壁に囲まれた執務室を照らしているのは、銀の燭台で頼りなく揺れる数本のロウソクと、暖炉の中でパチパチとはぜる薪の炎だけだ。
溶けた蜜蝋の甘い匂いと、古いインクの香りが鼻をくすぐる。
私は深いため息を吐き、手元のゴブレットを傾けた。
芳醇な赤ワインが、苛立ちで乾いた喉を焼くように流れ落ちていく。
「忌々しい……」
低くしゃがれた声が、薄暗い部屋へ溶けていった。
机の上にある羊皮紙。
それは、我がヘッセン=ダルムシュタットから放った密偵による緊急の報告書だった。
内容は、北方のブランデンブルク領で行われたベルリン防衛戦についてである。
ベルリンは守り切った。
デンマーク軍は撤退。
それだけなら、遠く離れた土地で起きた戦争にすぎない。我が領土が直接脅かされたわけでもない。
問題は――。
その防衛に大きく貢献した者たちが、憎きヘッセン=カッセル方伯の領民だったことだ。
カッセルの軍事的成功。
周辺諸国に対する影響力の拡大。
その二つだけでも、私の胸の奥へ冷たい警戒心を芽生えさせるには十分すぎた。
◇◆◇
ヘッセン地方は、大きく二つの勢力に分かれている。
北のヘッセン=カッセル。
そして南の、我らヘッセン=ダルムシュタット。
同じヘッセンの名を冠し、同じ一族の血を引いている。
だからといって、そこに温かな兄弟の情などあるはずもない。
あるのは、長年続く領土争い。
一族の正統性を巡る争い。
そして互いに抱き続けてきた、深い不信だけだ。
かつて、我らの祖先である偉大なるヘッセン方伯が治めた領地は、広大で豊かなものだった。
だが、代替わりに伴う分割相続によって、その領地は引き裂かれた。
しかもカッセルの系統は、豊かな街道や肥沃な土地を手に入れ、事あるごとに自らこそがヘッセンの中心であるかのような顔をしている。
(思い上がりおって……)
特に今のカッセル方伯は、野心に満ちた男だ。
産業を育て。
軍備を整え。
神聖ローマ帝国内での発言力を高めようと、着々と手を打っている。
今回のベルリンへの派遣も、表向きは救援要請に応えただけなのだろう。
だが本心はどうだ。
自らの力を周辺諸国へ示す絶好の機会と考えたのではないか。
そう疑わずにはいられない。
このままカッセルの力が増し続ければ、やがて我がダルムシュタットにも牙をむくだろう。
(あの赤と銀の縞模様をまとった獅子……思い出すだけでも虫酸が走る)
私はゴブレットを机へ叩きつけた。
カンッ!
鋭い金属音が、静かな執務室へ響く。
私は常に、カッセルの隙を探していた。
奴らの力を削り。
弱点を突き。
いずれは全ヘッセンを、ダルムシュタットの旗の下へ統一する。
それこそが私の悲願だった。
そのために、カッセルには何人もの密偵を送り込んでいる。
城の中。
軍の兵舎。
商人の集う市場。
下町の酒場。
あらゆる場所へ耳と目を潜ませ、情報を集めさせていた。
兵の配置。
物資の備蓄。
指揮官たちの不満。
貴族同士の派閥争い。
どんな些細なことでも構わない。
カッセルの牙を折るための楔になれば、それでいいのだ。
◇◆◇
「御前。お呼びでしょうか」
音もなく重い扉が開いた。
黒い外套を深く羽織った男が、部屋へ滑り込むように入ってくる。
我が密偵網を束ねる男だった。
顔の半分を黒い布で隠した男は、私の前で片膝をつき、深く頭を下げる。
「カッセル方伯の動きはどうなっている。ベルリンから帰還した者たちの様子は?」
「はっ。ベルリンでの勝利を受け、カッセルの街は大いに沸いております。方伯は功労者に対し、惜しみない褒美を与えたとのことです」
「だろうな。自らの威光を示すには、ちょうどよい機会だ」
私は鼻を鳴らし、椅子の背へ深く体を預けた。
「それで? その功労者とやらには何を与えた。金貨か? それとも騎士の称号か?」
「いえ」
密偵がわずかに顔を上げる。
「なんでも、残土回収をしていた平民の男を、突如として男爵へ叙したとのことです」
「……男爵だと?」
私は思わず身を乗り出した。
聞き間違いかと思った。
平民をいきなり貴族の列へ加える?
古き血統を重んじる貴族社会において、それは少なからぬ反発を招く行為だ。
「間違いないのか?」
「はい。カッセルから東へ四キロほどの場所にある、ハイリゲンローデという村を所領として与え、『ラーグ・フォン・ハイリゲンローデ男爵』と名乗らせたとのことです」
「ハイリゲンローデ……」
記憶を探る。
「確か、古い教会と水車があるだけの小さな村だったな」
「その通りです」
「男の素性は?」
「名はラーグ。三十七歳。少し前まで、カッセルで建設作業員をしていた平民だそうです」
「馬鹿馬鹿しい」
私は冷笑を漏らした。
三十七歳の土方。
泥まみれで働いていた男を、いきなり男爵に取り立てるとは。
(カッセル方伯も、ついに焼きが回ったか)
そう思った、その時。
「ただ……」
「なんだ?」
「そのラーグという男。少し前に、カッセルを襲った巨大なドラゴンを倒した英雄だという話もございます」
「ドラゴンを?」
「はい。『残土』という名の、奇妙なスキルを持っているとか」
「……残土?」
耳を疑う。
「ドラゴンを、残土で倒したというのか?」
「そのように伝わっております」
「くだらん」
私は報告書を指先で弾いた。
「戦場の噂など、常に尾ひれがつくものだ。どうせ腕の立つ傭兵が倒した手柄を、その男の魔法とやらへ押しつけたのだろう」
「ですが、ベルリンでもその男が大量の土を出し、デンマーク軍の攻撃を食い止めたと――」
「もうよい」
私は手を振った。
「これ以上、平民のほら話を聞く時間はない」
「……はっ」
密偵は口を閉じた。
「引き続きカッセル方伯と軍の動きを探れ。私が知りたいのは、奴らの兵力と政治的な動きだ」
「承知いたしました」
男は深々と頭を下げる。
そして来た時と同じように、音もなく部屋から姿を消した。
◇◆◇
一人になった執務室で、私は暖炉の炎を見つめながら、再びゴブレットへワインを注いだ。
窓の外では、冷たい夜風が木々の枝を激しく揺らしている。
ザワザワと葉のこすれる音が、妙に耳についた。
(ラーグ・フォン・ハイリゲンローデ男爵、か)
私は、その名を心の中で繰り返した。
三十七歳まで、ただの建設作業員として生きてきた男。
そんな、ぽっと出の成り上がりが、カッセルの軍事力を根本から変えるほどの存在になるとは到底思えない。
確かに、ベルリン防衛で何らかの功績を挙げたのだろう。
だが、所詮は珍しい能力を持っただけの平民上がりだ。
大軍を率いた経験もない。
広大な領地もない。
莫大な財力もない。
私が警戒すべき相手は、あくまでヘッセン=カッセル方伯。
そして奴が築きつつある、軍事力と政治力だ。
たった一人の新米男爵など、気に留める価値もない。
「取るに足らんな」
私は残ったワインを一息に飲み干し、暗闇へ冷たい笑みを浮かべた。
カッセルを打ち倒し、ヘッセンを統一する。
その壮大な計画の前では、ラーグという男など、道端に転がる小石ほどの存在でしかない。
そう。
この時の私は。
新しい男爵が一人増えただけだと、本気でそう思っていたのだ。
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