第6話 ベルリンの夜~俺氏の初めて散る~
【ラーグ視点】
石造りの重厚な壁に囲まれた、ブランデンブルク辺境伯の城。
その最上階にある豪華な客室へ案内された俺は、深く息を吐きながら天蓋付きのベッドへ腰を下ろした。
「つっかれたぁ……」
今日の戦勝会は、意外なほど静かで質素なものだった。
戦争が終わった直後なのだから、城の備蓄も限界に近かったのだろう。広い食卓へ並べられたのは、石みたいに硬い黒パンと、塩気の強い薄味のスープ。それに少しばかりの干し肉だけだった。
(建設現場の昼飯と、大して変わらないな)
そんなことを思っていた俺だが、最後に出された一本のワインですべてが変わった。
「我が家に代々伝わる秘蔵のワインだ。ベルリンを救ってくれた英雄たちへ、最大の敬意を表して」
ブランデンブルク辺境伯が自ら注いでくれた赤い酒は、ロウソクの光を受けてルビーのように輝いていた。
一口含んだ瞬間、豊かなブドウの香りが鼻へ抜ける。舌触りは驚くほどなめらかで、ほのかな甘みと酸味が喉を心地よく滑り落ちていった。
(なんだこれ。うまっ!)
三十七年間、仕事終わりに安いエールばかり飲んできた俺には、刺激が強すぎた。
もう一杯。
さらにもう一杯。
気づけば俺は、すっかり上機嫌になっていた。
◇◆◇
慣れない戦場で張り詰めていた緊張が解けたせいか、部屋へ戻った途端、疲れがどっと押し寄せてきた。
窓の隙間からはベルリンの冷たい夜風が入り込み、火照った頬を心地よく冷ましてくれる。雲間からのぞいた月明かりが、豪華な絨毯の上へ淡い光を落としていた。
俺はふらつく足でベッドへ潜り込む。
高級な羽根布団は、土と汗にまみれて生きてきた俺には申し訳なくなるくらい柔らかい。
(こりゃ……よく眠れそうだ)
清潔なリネンの香りに包まれながら、俺はあっという間に深い眠りへ落ちていった。
――カチャリ。
かすかな金属音が、夜の静寂を破った。
「ん……?」
夢うつつの中で、重い木製の扉が開く気配がする。
(誰だ……? 辺境伯の使いか?)
それとも、まさか残党の夜襲か。
重いまぶたを無理やり開く。
月明かりを背にして、二つの人影がベッドの脇へ立っていた。
「……誰だ?」
「アタイよ、ラーグ」
「私です。ごめんなさい、こんな時間に」
「えっ?」
聞き覚えのある声に、俺は一気に目が覚めた。
レイラとミラだった。
しかも二人とも、昼間の物々しい装備とはまるで違う、夜着姿で立っている。
「お、おい。どうしたんだよ、二人とも」
嫌な予感――いや。
ある意味では、ものすごく良い予感がした。
レイラがベッドの端へ腰掛け、いつもの勝ち気な笑みを浮かべる。
「ラーグ。前に言ったこと、覚えてるかい?」
「前に?」
「アタイの部屋で寝ていくかって誘っただろ?」
「あ」
思い出した。
ドラゴンを倒した夜のことだ。
「そ、それがどうしたんだよ」
「アンタ、もう少し仲良くなってからって言ったじゃないか」
レイラが顔を寄せてくる。
「ドラゴンも一緒に倒した。ベルリンまで一緒に来た。戦争まで一緒に乗り越えた」
青い瞳が、まっすぐ俺を見る。
「もう十分、仲良くなったと思わないかい?」
「…………」
逃げ道がない。
反対側では、ミラまで妙に楽しそうな顔をしている。
「私も、ラーグ様には興味がありますわ」
「ちょっと待て。なんでミラまで!?」
「あれだけ戦場で活躍しておいて、自覚がありませんの?」
「俺がやったの、土を出したり片付けたりしただけだぞ!?」
「それで軍隊を止めた人が何を言ってるんですの」
ぐうの音も出ない。
俺は二人を交互に見た。
三十七歳。
独身。
女性経験――なし。
そんな俺の人生で、今まで一度たりとも遭遇しなかった状況が、なぜか異世界のベルリンで発生している。
(いやいやいや。待て待て待て)
心臓がうるさい。
「俺みたいなおっさんで、本当にいいのか?」
「アンタがいいんだよ」
「私も同意見ですわ」
二人とも、迷いなく答えた。
「…………参ったな」
そこから先のことは。
酒が入っていたせいもあるし、俺自身が夢でも見ていたんじゃないかと思うくらい、記憶が曖昧だ。
ただ一つだけ、はっきりしている。
三十七年間、大事に――いや、単に機会がなかっただけだが――守り続けてきた俺の初めては。
その夜。
異世界のベルリンで、盛大に散った。
◇◆◇
翌朝。
「…………」
窓から差し込むまぶしい朝日で、俺は目を覚ました。
しばらく天井を見つめる。
知らない天井。
いや、昨日から見ていた天井だ。
「……夢じゃなかったんだな」
隣を見る。
誰もいない。
反対側にも誰もいない。
二人とも、とっくに起きて部屋を出たらしい。
だが、乱れたシーツだけが昨夜の出来事を容赦なく俺へ突きつけていた。
(俺の初めてが……)
三十七歳にして。
異世界で。
しかも、あんな形で。
「人生って分からねぇなぁ……」
なんとも言えない気分で天井を眺めていると、扉がコンコンと叩かれた。
「ラーグ殿、起きておられるか? 出立の準備が整ったぞ!」
「お、おう! 今行く!」
俺は慌てて飛び起き、服を着込んだ。
◇◆◇
城の中庭には、すでにヘッセンへ帰るための馬車が並んでいた。
朝の冷たい空気の中、馬たちが白い息を吐いている。
そして。
いた。
レイラとミラだ。
二人とも何事もなかったかのような顔で馬車のそばへ立っている。
「お、おはよう」
「おはよう、ラーグ」
「おはようございます」
普通だ。
あまりにも普通すぎる。
だが俺と目が合った瞬間、レイラは少しだけ頬を赤くし、ミラもそっと視線をそらした。
「…………」
「…………」
「…………」
気まずい。
とてつもなく気まずい。
(でも……まあ、悪い気はしないな)
そんなことを考えていると、見送りに来ていたブランデンブルク辺境伯が俺の前まで歩いてきた。
「ラーグ殿」
辺境伯は俺の肩を、両手でがっしりとつかんだ。
「この度の働き、実に見事であった。我がベルリンを救ってくれたこと、生涯忘れはしない」
「いやぁ、俺はただ、余ってた残土を出したり回収したりしただけでして……」
「はっはっは! まだそのようなことを申すか!」
辺境伯が豪快に笑う。
「あれほど見事な防衛を成し遂げておいて、ただの残土処理と言い張る者は、そなたくらいであろうな」
「俺としては本当にそれだけなんですけどねぇ……」
辺境伯は笑いながらも、やがて少し真剣な表情になった。
「ヘッセン=カッセル方伯には、そなたの働きを詳しく伝えておいた」
「え?」
「十分な褒美を与えるよう、私からも強くお願いしてある。胸を張って帰還されるがよい」
「褒美……ですか」
「当然であろう。そなたはベルリンを救った英雄なのだからな」
「はぁ……ありがとうございます」
俺は愛想笑いを浮かべながら頭を下げた。
(そんな大げさなこと、しなくていいんだけどなぁ)
欲しいのは莫大な富でも名声でもない。
自分の組で仕事をして、残土を集めて、毎日そこそこうまい飯が食えればそれでいい。
まあ。
(ボーナスが出るってんなら、悪くはないか)
「さあ、行こうぜ、ラーグ!」
「ヘッセンが私たちを待っていますわ」
馬車からレイラとミラが手招きしている。
昨夜のことなど嘘だったみたいな、爽やかな顔だ。
「はいはい。今行くよ」
俺は朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、馬車へ乗り込んだ。
やがて車輪が石畳をコトコトと鳴らし、ゆっくり動き始める。
振り返れば、ベルリンを囲む重厚な市壁が朝日に照らされていた。
ドラゴンを倒し。
自分の組を作り。
戦争へ連れてこられ。
気づけばベルリンを救った英雄になっていた。
そして昨夜は、男としての階段まで思わぬ勢いで登ってしまった。
(俺の人生、急にいろいろ起こりすぎじゃないか?)
これ以上、とんでもないことなんて起きない。
この時の俺は、まだ本気でそう思っていた。
ヘッセンで待ち受けている『褒美』が、俺の人生をさらに大きく変えることになるとも知らずに。
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