第5話 ベルリン攻防戦
冷たい風がシュプレー川の水面をなで、鉛色の空の下に静かな波紋を広げていた。
高く厚いレンガ造りの市壁に囲まれた、堅牢なる都市ベルリン。シュプレー川を挟み、ベルリンとケルンという二つの街が向かい合うように築かれた、美しき双子都市である。
市壁は二つの街をぐるりと囲み、その長さは二・五キロメートルにも及ぶ。数か所に設けられた門だけが、外界との行き来を許していた。
我々デンマーク軍はその周囲へ兵を展開し、ベルリンを完全に包囲していた。
戦況は、我々にとって極めて有利である。
すでに野戦ではブランデンブルク軍を打ち破った。敗残兵は城壁の内側へ逃げ込み、守備兵の数もさほど多くないと見られている。
問題は、この後だ。
このまま強固な包囲網を敷き、敵が飢え苦しむのを待つか。
それとも、多少の犠牲を覚悟して力攻めを行い、一気にベルリンを陥落させるか。
ベルリンの東側に築いた本陣で、私は参謀たちと今後の作戦について話し合っていた。
デンマーク軍において、クリスチャン王太子殿下に次ぐ地位にあるこの私、ハンス・フィリップ・フックス・フォン・ビンバッハは、前衛部隊を率いてここまで十分な戦果を挙げてきた。
私の判断一つで、ベルリンの運命が決まる。
そう考えながら口を開こうとした、その時だった。
「伝令! 伝令!」
「何事だ?」
「南門を包囲している部隊からです! ただいま、包囲部隊が背後から襲撃を受けました!」
「なに!? 敵はどうした?」
「そのまま南門を突破し、ベルリンへ入ったもようです! 多数の荷車も確認されています。援軍と補給物資かと思われます!」
私は勢いよく立ち上がり、天幕の外へ出た。
耳を澄ます。
冷たい風に乗り、ベルリンの方角から地鳴りのような歓声が聞こえてきた。
絶望の中で待ち望んでいた援軍と補給が到着したのだ。守備側の士気が一気に跳ね上がったのだろう。
(これはまずいな……)
私は奥歯を噛んだ。
十分な食料や物資が城内へ運び込まれたとなれば、兵糧攻めによる長期戦は難しくなる。
我々がベルリンの城壁の前で時間を浪費している間に、イングランド、フランス、スウェーデン、オランダといった周辺国がどう動くか分からない。
遠征軍にとって、時間は味方ではないのだ。
ならば、決断は早い方がいい。
「よし。力攻めに切り替える」
「はっ!」
「投石器を準備させろ。それから、念のため大砲も前へ出しておけ」
「大砲も使用しますか?」
「いや、撃つのは後だ」
私はわざと肩をすくめた。
「あの大筒の弾は、まだ高いからな」
張り詰めていた参謀たちの間から、小さな笑いが漏れた。
「まずは東側から投石器で徹底的に叩く。城壁に穴が開いたなら、その時点で各部隊の判断による突入を許可する」
「はっ!」
作戦は決まった。
あとは城壁を崩すだけである。
ベルリン陥落は、もはや時間の問題。
その時の私は、そう信じて疑っていなかった。
◇◆◇
数日後。
大地を震わせる轟音とともに、数十機の投石器が一斉に動き出した。
「放てぇ!」
巨大な岩が空へ舞い上がる。
ヒュウウウウウッ――!
空気を切り裂いて飛んだ岩石が、レンガ造りのベルリン市壁へ次々と直撃した。
ドゴォン!
ドガァン!
鈍い衝撃音が連続し、粉塵が高く舞い上がる。砕けたレンガが乾いた音を立てて崩れ落ち、市壁の一部には見る間に亀裂が走っていった。
「よし……そのまま続けろ!」
狙い通りだった。
このまま撃ち続ければ、そう長くは持たない。
やがて城壁の一部が大きく崩れ、兵士たちから歓声が上がった。
その時である。
「……なんだ、あれは?」
土煙の向こう。
崩れかけた市壁の上へ、奇妙な二人組が姿を現した。
一人は、どこにでもいそうな平凡な顔をした、三十代後半ほどの中年男。
もう一人は、蜂蜜のような長い金髪を風になびかせた美しい女剣士だった。
女はともかく、男はどう見ても兵士ではない。
鎧すらまともに着ていない。
その男が、崩れた城壁へ向かって片手を伸ばした。
次の瞬間。
ズゴゴゴゴゴゴッ――!
「なっ……!?」
黒い土が、何もない空間から突然あふれ出した。
大量の土砂が崩れかけた城壁へ降り注ぎ、レンガの表面を分厚く覆っていく。
まるで土そのものが、ベルリンを守る盾へ変わったかのようだった。
「構うな! 撃て!」
再び投石器から岩が放たれる。
巨大な岩石が、土で覆われた城壁へ直撃した。
ズボッ。
「…………」
私は目を疑った。
岩は城壁を砕かなかった。
分厚い土へ深々とめり込み、それきり動かない。
「もう一度だ!」
「放てぇ!」
ドゴォン!
ズボッ。
ドガァン!
ズブッ。
結果は同じだった。
レンガを砕くはずだった岩の勢いを、分厚い土がすべて受け止めている。
市壁には届かない。
(なんなのだ、あの男は……)
あれほど大量の土を一瞬で出現させる魔術師など、聞いたことがない。
しかも、土を出した本人は疲れた様子すら見せず、女剣士と何やら話している。
こちらが何日もかけて準備した攻城兵器を、たった一人で無力化したというのにだ。
「……ふざけおって」
私は無意識に、指揮杖を強く握っていた。
◇◆◇
翌日。
私はすぐに攻撃方法を変更した。
ベルリンの市壁は、およそ五メートルほど。
投石器が通用しないなら、攻城ハシゴを掛けて直接乗り越えればいい。
だが、その前に問題がある。
市壁の周囲を囲む、深い堀だ。
「土を運べ! 堀を埋めろ!」
歩兵たちが袋や籠に土砂を詰め、次々と堀へ投げ込んでいく。
ベルリン側も黙ってはいない。
「矢だ! 盾を上げろ!」
ヒュンヒュンと風を切り、城壁の上から無数の矢が降り注ぐ。
盾へ矢が突き刺さる音。
負傷兵のうめき声。
怒号。
それでも作業は止めなかった。
兵士たちは盾で頭上を守りながら、ひたすら土を運び続ける。
犠牲は出た。
だが、この程度なら戦争では許容範囲だ。
数時間後。
ついに堀の一部が土砂で埋まり、兵士が渡れるほどになった。
「よし! ハシゴを前へ!」
「おおおおおっ!」
兵士たちが歓声を上げる。
長大な攻城ハシゴを抱え、埋め立てた堀へ向かって走り始めた。
その時だった。
「……また、あいつか」
城壁の上。
昨日と同じ中年男が立っていた。
こちらを見下ろしながら、片手を堀へ向ける。
ズズズズズズッ――!
「なっ!?」
堀へ投げ込んだ土が消え始めた。
土砂が崩れ、渦を巻くように一点へ集まり、そのまま目に見えない何かに吸い込まれていく。
「止めろ! 止めさせろ!」
叫んでも意味はない。
兵士たちが何時間もかけて運んだ土砂が、ほんの数秒で消えていく。
そして。
ザバァン!
せき止められていた水が流れ込み、堀は再び深い水をたたえた。
「…………」
攻城ハシゴを抱えた兵士たちが、堀の手前で呆然と立ち尽くしている。
次の瞬間。
「うおおおおおおおおっ!」
ベルリン側から、割れんばかりの歓声が上がった。
「なんだ、あの魔法使いは!」
「またやりやがったぞ!」
「ベルリンは落ちねぇぞ!」
城壁の上から叫ぶ声が、こちらにまで届いてくる。
(馬鹿な……)
我々が何時間もかけた作業が。
何人もの兵士が傷つきながら続けた作業が。
あの男が手をかざしただけで、すべて無駄になった。
「くっ……!」
指揮杖を握る手に力が入る。
出し惜しみしていた大砲を撃ち込むことも考えた。
だが、すぐに思い直す。
恐らく、結果は同じだ。
あの男が城壁を分厚い土で覆えば、高価な砲弾まで土へめり込んで終わる。
投石器は効かない。
堀も埋められない。
ならば、どうやってこの街を落とせというのだ。
苛立ちが胸の奥で煮えたぎる。
その時だった。
「ビンバッハ将軍に申し上げます!」
背後から慌ただしい足音が近づいてきた。
また伝令である。
「なんだ! 手短に頼む!」
思わず怒鳴る。
伝令兵はビクッと肩を震わせたが、すぐに青ざめた顔で口を開いた。
「神聖ローマ帝国皇帝の名において、停戦を求める使者が本国へ到着いたしました! 本国は……これを受諾したもようです!」
「なんだと……!?」
私は振り返った。
「皇帝フェルディナント二世が動いたというのか……」
頭の中で、瞬時に状況を整理する。
本国が皇帝との停戦を受け入れた。
それが事実ならば、もはやベルリン攻略を続ける大義はない。
いや、それだけではない。
ここで我々だけが軍事行動を続ければ、帝国軍や周辺国に背後を突かれる可能性すらある。
遠く故国を離れたデンマーク軍が孤立すれば、待っているのは破滅だ。
「……やられたな」
私は大きく息を吐き、鉛色の空を見上げた。
ベルリン攻略軍の全権を与えられているとはいえ、本国の決定へ逆らうことはできない。
それに。
視線を城壁へ戻す。
あの中年男が、また城壁の上に立っていた。
今度はこちらへ土を出すでもなく、ただ遠くから戦況を眺めている。
(結局、あの男が何者なのかすら分からなかったな)
私は指揮杖を下ろした。
「……仕方ない。撤収する」
「はっ」
「ただし、一糸乱れぬ整然とした行軍でだ。敗走ではない。敵に付け入る隙を与えるな」
「承知しました!」
ほどなくして、我々デンマーク軍は包囲を解いた。
兵士たちが陣幕を畳み、攻城兵器を引き下げ、長く伸びた隊列が北へ向かって動き始める。
その背中へ。
「うおおおおおおおおおっ!」
ベルリンの街から、地面を揺らすほどの歓声が浴びせられた。
「勝ったぞ!」
「デンマーク軍が退いていく!」
「ベルリンは守られた!」
幾重にも重なる勝利の叫び。
私は馬上で振り返ることなく、その声を聞いていた。
胸の中に残っているのは、敗北への悔しさ。
そしてもう一つ。
(あの土使い……)
名前すら知らない中年男の姿が、どうしても頭から離れなかった。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




