第4話 戦争の足音
【レイラ視点】
カッセルの街を吹き抜ける風が、急に刃のような冷たさを帯び始めた。
分厚い灰色の雲が空を覆い、石畳の上を枯れ葉がカラカラと乾いた音を立てて転がっていく。つい数日前まで、ドラゴン討伐の熱狂と祝宴の甘い酒の匂いに包まれていた街は、一転して重苦しい緊張にのみ込まれていた。
北の国境に位置するブランデンブルク領。
その防衛の要衝であるベルリンの城へ、隣国が大規模な侵攻を開始したという報せが届いたのだ。
戦争である。
城の防衛と修復のため、カッセルの街の建築を束ねるダル組へ、国から直接の召集令状が下った。そして当然のように、その下請けとして残土処理を担っている『ラーグ組』も、最前線への同行を命じられた。
「ねぇ、ラーグ。分かってんのかい? ドラゴンより人間の方がおっかないんだよ?」
「そんなの分かってるよ! 俺たち、ちょっと有名になりすぎたのかもしれないな……」
アタイが腕を組んで声をかけると、ラーグは額に脂汗を浮かべながら、悲鳴みたいな声を上げた。
彼の目の前では、山のような土砂が現れては消え、また現れては消えるという、とんでもない光景が繰り広げられている。
ラーグだけが持つスキル『残土』。
これまで適当に放り込んでいただけの大量の残土を、彼は今、必死になって分類し直しているのだ。
ズゴゴゴゴッ――。
重い音とともに吐き出された土砂の中から、大人の背丈ほどもある巨大な岩だけがゴロリと選び出され、再び見えない空間へ吸い込まれていく。
次は中くらいの石。
その次は砂利。
最後に黒っぽい土。
見ているだけでも気が遠くなりそうな作業だ。
だが、これをやっておかなければ、いざという時に欲しいものをすぐ取り出せないらしい。
アタイは少し離れた場所から、土ぼこりにまみれて働くラーグの背中を見つめた。
三十七歳の土方のおっさん。
剣の素振り一つしたことがない。
魔法の知識だって、ほとんどない。
だけどアタイには分かる。
冒険者として何度も死線をくぐってきたからこそ、あの力が戦場でどれほど恐ろしいものになるのかが分かってしまう。
土があれば、敵の進軍を阻む土壁を作れる。
深い溝を作れば、兵士も馬も簡単には進めなくなる。
岩を城壁の上まで運べるなら、そのまま敵兵の頭上へ落とすことだってできる。
少し加工する時間さえあれば、集めた石を城壁の修復にも使えるだろう。
アタイの方が、戦いや殺し合いについてはずっと詳しい。
そのアタイから見ても――ラーグさえいれば、どれほど追い詰められた城でも、簡単には落ちない要塞へ変えられる可能性がある。
(でも……万が一ってことは、いつだってあるんだ)
戦場では、どれほど頑丈な城壁があっても安心なんかできない。
一本の毒矢。
夜陰に紛れた暗殺者。
流れ矢一つで、あっけなく人は死ぬ。
ましてやラーグは、自分から敵を斬りにいける男じゃない。
(この人の良すぎるおっさんを、戦場で死なせるわけにはいかないねぇ)
そう決めると、アタイはかかとを返した。
「どこ行くんだ、レイラ?」
「ちょっとね。アンタはそれ、続けときな」
ラーグへ片手を振り、アタイは街の裏通りへ向かった。
◇◆◇
向かった先は、カッセルの裏手にある薄暗い酒場だった。
命知らずの冒険者や、金に飢えた傭兵たちが昼間からたむろする吹きだまりだ。店へ近づくだけで、血と汗と安酒が混ざり合った、すえた匂いが鼻を突く。
アタイは分厚い木の扉の前に立った。
そして、ためらうことなく革のブーツで蹴り開ける。
バンッ!
蝶番が悲鳴を上げ、扉が壁へ激突した。
喧騒に包まれていた酒場が、水を打ったように静まり返る。
紫煙の漂う店内。
ジョッキを傾けていた男たちや、ダイスを振っていた荒くれ者たちの物騒な視線が、一斉にアタイへ突き刺さった。
その程度でひるむアタイじゃない。
店の奥まで届くよう、腹から声を張り上げた。
「北で戦争だ! ラーグ組も防衛に加われって要請が来た! 雇われたい傭兵団は手を上げな!」
数秒の沈黙。
誰もが顔を見合わせる中、薄暗いカウンター席の隅から、コトリとジョッキを置く音がした。
一人の女が、ふらりと立ち上がる。
場違いなほど小柄な体。
艶のある黒髪に白い肌。華奢な体つきの美しい女だ。
だが、その腰には使い込まれた二本のショートソードが下がっている。
飾りじゃない。
一目見れば、何人もの血を吸ってきた剣だと分かる。
「高いよ? それでもいいかい?」
鈴を転がすような声だった。
それなのに、聞いた瞬間、背中へ冷たいものが走る。
ランプの明かりに照らされた顔を見て、アタイは思わず口角を上げた。
知っている女だ。
昔、別の戦場で何度か獲物を奪い合ったことがある。
「誰かと思ったら、双剣のミラじゃない。アンタいたの?」
「死にたいの?」
「誰に向かって口きいてると思ってるんだゴルァ」
空気が一瞬で沸騰した。
アタイは腰の愛剣へ手を伸ばす。
同時に、ミラの細い指が左右のショートソードの柄へかかった。
酒場の空気が張り詰める。
誰かがゴクリと唾を飲み込む音まで聞こえた。
「お、おい! 待て待て待て!」
「レイラの姐さん、ここで暴れられちゃ困る!」
たまらず周囲の傭兵たちが立ち上がり、冷や汗を流しながらアタイたちの間へ割って入ってきた。
大の男たちが何人も必死になだめている。
「チッ」
アタイは舌打ちして剣から手を離した。
ミラも殺気を消すと、つまらなそうに肩をすくめる。
「まあ、いいわ。アナタ、ドラゴンを倒したんですって? やるじゃない」
ミラが挑発するように笑った。
「その仕事、受けてあげてもよろしくてよ?」
「悪いねぇ。正直、助かるよ」
「報酬は高いけど?」
「払うさ」
ドラゴン討伐でもらった金は、ラーグが持て余すほどある。
だったら今は、あの男の命を守るために使えばいい。
「アタイのイイ人のためだからねぇ」
からかうように笑って言うと、ミラの目がわずかに丸くなった。
「ヒュ〜ッ」
高い口笛が響く。
その顔には、あのレイラに男ができたのかと言いたげな笑みが浮かんでいた。
「なんだい、その顔は」
「別にぃ?」
ミラが楽しそうに肩を揺らす。
それをきっかけに、酒場のあちこちから声が上がり始めた。
「俺たちも行くぜ! ドラゴンスレイヤーの組なら、金払いは確実だろ!」
「俺のところも十人出す!」
「北方軍なんざ、まとめてぶっ潰してやるよ!」
次々と男たちが立ち上がる。
ジョッキが打ち鳴らされ、怒号と歓声が狭い酒場を揺らした。
戦争へ行くっていうのに、まるで祭りの前みたいな騒ぎだ。
(まあ、これだけいりゃ十分だろ)
アタイ一人では、ラーグの前も後ろも守れない。
だけど百人近い傭兵がいれば話は別だ。
これで、あのおっさんを守る壁は用意できた。
◇◆◇
数日後。
鉛色の空の下、カッセルの街から巨大な隊列が出発した。
先頭を進むのは、ダル親方が率いる建築の職人たち。
腕利きの大工や石工が集められ、木材や鉄筋、工具を満載した荷馬車が何台も連なっている。重い車輪が石畳へ深い跡を残し、ギシギシと軋む音が朝の街へ響いていた。
そして、その後ろに続くのがアタイたち『残土のラーグ組』だ。
双剣のミラをはじめ、アタイが集めた傭兵はおよそ百人。
槍、剣、弓。
それぞれ得意な武器を持った連中が、ラーグの乗る馬車を四方から包むように歩いている。
「なんか……とんでもないことになってきたな」
御者台に座って手綱を握るラーグが、背後の物々しい行列を振り返った。
相変わらず、自分がどれだけ重要な人間になっているのか分かっていない顔だ。
「アンタはただ、言われた通りに土を出しゃいいんだよ」
「それで済むかなぁ……」
「済ませるのさ」
アタイはラーグの隣に座り、その肩をポンと叩いた。
「背中はアタイが守ってやるからさ」
そう言ってウインクすると、ラーグは少し照れたように頬をかいた。
「……頼りにしてるよ」
「任せな」
北から吹きつける風は冷たい。
どこか血と硝煙の匂いまで運んでくるような、不吉な風だった。
目的地はブランデンブルク領、ベルリン。
そこで、どんな地獄が待っているのかは分からない。
だけど――。
(ラーグ。アンタだけは死なせないよ)
風にはためく傭兵たちの旗を見上げる。
バタバタという音を聞きながら、アタイたちの隊列は、激戦の地へ向かってゆっくりと歩みを進めていった。
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