第39話 真面目なティリーさん
【ヨハン・ツェルクラエス・フォン・ティリー視点】
聖暦一六二二年、十月。
プファルツ地方、マンハイム近郊。
カトリック連盟軍の総司令官である私の天幕は、秋の冷たい風を受け、時折ばたばたと音を立てていた。内部は極めて質素だ。派手な装飾品も、過剰な調度品もない。あるのは実務に使うための簡素な机と椅子、そして陣頭指揮を執るための武具だけである。
私は机に広げたマンハイムの包囲図から顔を上げ、手元の報告書へ目を通した。
「四月にミンゴルスハイムで後れを取った時はどうなるかと思ったが……その後の軍の動きは極めて順調だな」
「はい、閣下。五月のヴィンプフェン、六月のヘーヒストと我らは連勝を重ねております。先月には、長きにわたる包囲の末、ついにプファルツの首府ハイデルベルクを攻略いたしました。残るこのマンハイムも、落ちるのは時間の問題かと」
傍らに立つ副官が、誇らしげに胸を張った。先月、皇帝陛下から伯爵位を賜ったこともあり、陣営の士気は高い。
だが、私の心に慢心はない。
私は一介の職業軍人だ。神と皇帝への忠誠を胸に、ただ与えられた軍務を堅実に、そして確実に行うだけである。華々しい名誉や莫大な富など、私には必要ない。必要なのは、目の前の敵を打ち破り、兵を一人でも多く生かして勝利を掴むことだ。
「油断は禁物だ。ハイデルベルクの攻城戦でも、我らは決して少なくない犠牲を払った。要塞都市を落とすというのは、常に血と泥にまみれる過酷な仕事だ。マンハイムの包囲陣も、さらに堀を深くし、土塁を固めよ」
「はっ。直ちに」
副官は頷いた後、ふと思い出したように言葉を継いだ。
「そういえば閣下。ウィーンの宮廷から、一部の将軍や諸侯の間で話題になっているという書物が届いております。なんでも、築城と要塞に関する新しい理論が書かれているとか」
「ほう。見せてみろ」
副官から受け取ったのは、一冊の分厚い本だった。
表紙には『ラーグ式要塞理論』とある。
「ラーグ……ああ、あの統一ヘッセン方伯の配下から、皇帝陛下の直臣としてフランケンタール伯となり、さらには帝国諸侯にまで列せられたという男か」
「はい。そのラーグ侯が記した要塞構築のマニュアルだそうです」
私は本を開いた。
静かな天幕の中に、ページをめくる音だけが響く。
低く、分厚い土塁。星形に張り出した稜堡。互いの死角を消し去る十字砲火の射線。さらには、それらを構築するために必要な人員や作業手順までが、図解入りで極めて詳細に記されている。
「…………」
私は黙々とページをめくり続けた。数十分が経過しただろうか。
私の脳裏には、つい先月まで行っていたハイデルベルクの攻城戦が浮かんでいた。
もし、敵がこの理論通りの要塞を築いて待ち構えていたら、どうなっていたか。
分厚い土塁に砲弾は威力を殺され、斜面に取り付こうとした兵たちは、張り出した稜堡からの十字砲火で次々と薙ぎ払われる。
(……この築城法が敵側にあったら、洒落にならんな)
背筋に冷たいものが走った。
机上の空論ではない。つい先だってまで攻城戦の最前線で血を流してきた私だからこそ、この理論の恐ろしさが実感を伴って理解できた。
堀を掘るのが早い。陣地を固めるのが早い。そして、攻める側からすれば悪夢のような防御陣地だ。
私は本を閉じ、静かに息を吐いた。
「……閣下、いかがでしょう?」
副官が、恐る恐る私の顔色をうかがいながら尋ねてきた。
私は率直な感想を口にした。
「よく考えられている」
「は」
「これなら兵を無駄に死なせずに済む。防衛側はもちろんのこと、包囲陣を築く際にも応用できるだろう。素晴らしい実用性だ」
「……それだけでございますか?」
副官が、拍子抜けしたような顔をした。
「なんだ。それ以上に何が必要なのだ?」
「いえ……その、他の方々は、この本を読んで『新時代の軍事革命だ』と興奮されたり、はたまた『これでどれだけの築城費が浮くか』と利益を計算されたりしていると耳にしましたので……」
「馬鹿馬鹿しい」
私は一蹴した。
「新時代だの利益だの、そんなものは学者や商人が考えればいいことだ。我々軍人にとって最も重要なのは、いかにして兵を死なせずに勝つかだ。堀を掘り、陣地を固め、攻城戦で兵を無駄に消耗させない。この本には、そのための確かな手順が書かれている。それだけで十分すぎるほどの価値がある」
「は、はあ……」
私は副官へ向き直り、一つ確認した。
「しかも、このラーグという男は、我々皇帝陣営の側なのだろう?」
「はい。皇帝陛下から侯爵に叙され、プファルツの統治も任されているとのことです。紛れもない味方にございます」
「ならば、結構なことではないか」
私は深く頷いた。
これほど厄介で恐ろしい要塞を築く男が、敵ではなく味方にいる。
なんとありがたいことだろうか。
それ以上に、何を望む必要があるというのだ。
「有能な味方が増えた。よかった」
私がしみじみと呟くと、副官はなんとも言えない顔で苦笑した。
「……閣下は、本当に欲がおありになりませんね」
「欲で戦争は勝てんよ。勝つのは常に、堅実な準備と地道な努力だ」
私は机の上の『ラーグ式要塞理論』を、大切に手元へ引き寄せた。
この本に書かれている手順を我が軍の工兵たちにも学ばせれば、マンハイムの包囲陣はさらに強固なものになるだろう。そして、この先の戦いでも、無駄な血を流さずに済む兵が確実に増える。
「うむ。ラーグ侯は実に頼もしい」
私は真面目にそう締めくくり、再びマンハイムの包囲図へ向かってペンを走らせるのだった。
――後世の軍事史家はこう語る。
『ラーグ式要塞理論』を読んだ同時代の三人の将軍の反応は、それぞれの性格を如実に表していたと。
スウェーデン王グスタフ・アドルフは、「この防御を、どう突破する?」と戦術の革新を夢見た。
軍事企業家ヴァレンシュタインは、「これで、いくら浮く?」と軍事経済の永久機関を妄想した。
そして、カトリック連盟軍の総司令官ティリー伯爵だけは、「有能な味方でよかった」と、ただ純粋に兵の命が助かることを喜んだのである。
だが、この話はまだ終わらない。
ラーグの本はドイツ・北欧圏だけに留まらず、フランスのパリにも届いていた。
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