第38話 もう一人の怪物――軍事企業家ヴァレンシュタイン
【アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン視点】
聖暦一六二二年、秋。
ボヘミア、プラハ。
分厚い石壁に囲まれた執務室には、冷たい秋の風が吹き付けていた。だが、室内に置かれた巨大なマホガニーの机の上は、熱を帯びた紙の束で埋め尽くされている。
私は羽ペンをインク壺に浸し、新たな書類へ流麗なサインを書き込んだ。
「これで、北ボヘミアの没収領は四十九か所目か」
「はい、閣下。白山の戦いで反乱貴族たちから没収された土地の買収は、極めて順調に進んでおります」
傍らに控える副官が、恭しく書類を受け取る。六月に手に入れたフリートラントの広大な領地をはじめ、私の資産は今やボヘミアでも屈指のものになりつつあった。先日、皇帝フェルディナント二世陛下からは宮中伯──コムス・パラティヌスの特権すら与えられている。
私は三十九歳だ。だが、野心を満たすには、まだ何もかもが足りない。
「次はモラヴィアの穀物生産量と、新規に徴募した連隊の給与表を出せ。それから、ウィーンの銀行家からの融資額の確認もだ」
「直ちに」
机の上に並べられているのは、戦場の地図でもなければ、大砲の設計図でもない。
土地台帳。徴税額。穀物生産量。馬の頭数。兵の給与表。没収領の一覧。
すべては『数字』である。
愚かな将軍たちは、戦争を戦場の中だけで考えている。いかに陣形を組み、いかに騎兵を突撃させるか。そんなものは、戦争という巨大な機構のほんの一部にすぎない。
土地を買い、税を徴収し、食糧を生産し、融資を引き出す。それを兵士の数と武器に変える。
土地、税収、徴兵、軍需、生産、融資。すべてを繋げ、暴力へと変換するシステムを構築した者だけが、これからの戦争を支配する。
それが、軍事企業家としての私の戦い方だった。
「……閣下。実は本日、ウィーンの宮廷から興味深い品が届いております」
副官が、一冊の分厚い本を机の上に置いた。表紙には、幾何学的な星形の模様が描かれている。
「何だ、これは」
「現在、ヨーロッパ中の君主や将軍たちがこぞって買い求めているという軍事書です。『ラーグ式要塞理論』。著者は、あのヘッセンの……いや、現在はフランケンタールを治める帝国諸侯、ラーグ侯にございます」
「ほう」
私は眉を動かした。
土の魔法か何かで一瞬にして巨大な堀を掘り、城壁と同じ高さの坂を作って要塞を落としたという、あの奇怪な男か。
私は本を手に取り、ページをめくった。
図面が描かれている。低く、分厚い土塁。星形に張り出した稜堡。互いの死角を消し去る十字砲火の射線。
なるほど。
大砲の威力を殺し、敵の突撃を斜面で削り取る、極めて合理的で無駄のない防御陣地だ。これをまともに攻めれば、どれほどの大軍でも泥沼に沈むだろう。
北方の軍事の天才、スウェーデン王グスタフ・アドルフならば、この本を読んでこう考えるはずだ。
『この防御を、どう突破する?』
機動力か、砲の集中か、戦術の閃きで破ろうとするだろう。
だが、私は違う。
すべてのページに目を通し、本を閉じた私が最初に発した言葉は、戦術とはまったく無縁のものだった。
「……いくら浮く?」
「は?」
副官が間抜けな声を出した。
「この要塞を築けば、何人の兵を節約できるかと聞いているのだ」
私は机の上の紙を引き寄せ、羽ペンを走らせた。
「通常、これだけの規模の要塞や土塁を築くには、一万人の工兵と人夫が十日は必要になる」
「は、はい。その通りかと」
「しかし、噂によればラーグ侯はこれを一瞬で……いや、数時間で築き上げると聞いた。土塁を一万人で十日かけて築く必要がない?」
「はい。ラーグ侯なら一人でやってのけるそうです」
「……では、その十万人日分の労働力を、そっくりそのまま別の戦場へ回せる」
私はペンを置き、副官を見据えた。
「分かるか? これは単なる防御陣地の本ではない。労働力の圧縮だ」
「ろ、労働力の圧縮、ですか……?」
「そうだ。築城費の削減。兵站負担の軽減。大軍の進軍速度の上昇。そして無駄な要塞構築に割かれる守備兵力の再配置。彼が土を動かすたびに、帝国の金庫には何万グルデンもの黄金が残り、何万もの兵士が別の任務へつけるのだ」
魔法などではない。奇跡でもない。すべては、莫大なコストの削減と、労働力の圧倒的な効率化である。
私の胸の奥で、強烈な興奮が燃え上がっていた。もし、この男の能力を私の軍事システムに組み込むことができれば、どうなるか。
食糧を運び、陣地を築くための膨大な時間と金が浮く。浮いた金で、さらに数万の兵を雇える。その兵で新たな土地を制圧し、さらに税を取り立てる。
無限に自己増殖する、巨大な軍隊の永久機関が完成する。
「ラーグ伯爵は、いくらで雇える?」
私が当然のように尋ねると、副官は慌てて首を振った。
「閣下! こ、侯ですよ。もはや一介の男爵や伯爵ではなく、皇帝陛下からフュルスト──帝国諸侯に列せられたお方です。それに、皇帝陛下の娘君であるクリスティーネ様とご婚約までされております。物のように申されては……」
「人間だから値段がない、とでも?」
私は鼻で笑った。
「一万グルデンで駄目なら、十万グルデン出せ。金で動かないなら、土地をやれ。権力をやれ。人間である以上、必ず対価という名の値段がついている」
私は立ち上がり、窓の外へ目を向けた。秋のプラハの街並みが、夕暮れに赤く染まっている。
今はまだ、私は自費で連隊を維持する一介の軍事企業家にすぎない。だが、星の巡りは確実に大きな戦乱の到来を告げている。
私の愛する占星術が、遠からずヨーロッパ全土を巻き込む巨大な戦争が起きると示していた。
その時、皇帝は必ず大軍を必要とする。二万や三万ではない。十万という、かつてない規模の軍隊を。
「ラーグ侯……実に素晴らしい男だ」
彼がもたらした『ラーグ式要塞理論』は、私に新しい戦争の形を確信させた。
戦術の時代は終わる。
これからは、どれだけの資本を軍事力に変換できるかという、純粋な経済と暴力の戦いになる。
「私のシステムが完成した暁には、ぜひとも彼を軍事顧問として招きたいものだな」
私は静かに笑みを浮かべ、再び机上の帳簿へ目を落とした。
まずは土地だ。
さらに土地を買い、資金を集めるのだ。来るべき、本当の戦争のために。
――後世の歴史家はこう語る。
『ラーグ式要塞理論』が、機動戦の天才グスタフ・アドルフに届いた次に、『軍隊を作る天才』アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインの元へ届いたこの瞬間こそが、歴史のターニングポイントであったと。
スウェーデン王が戦術の改革へ乗り出したのと同じ頃、プラハの軍事企業家は、ラーグの影響によって『いかに効率よく大軍を錬成し、維持するか』という、巨大な怪物へと育ち始めていたのである。
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