第40話 外交を気にするリシュリュー
【フランスの枢機卿リシュリュー視点】
聖暦一六二二年、秋。
フランスの首都、パリ。
来年から、国王陛下がパリ郊外のヴェルサイユという土地に、小さな狩猟館を建て始めるらしい。宮廷では、そんなどうでもいい噂がささやかれていた。
だが、一介の司教から今年ついに枢機卿――カルディナルへと昇り詰めた私の目は、そんな国内の小さな庭ではなく、もっと広大な盤面へと向けられている。
パリの執務室。
私は机に広げた巨大なヨーロッパ全土の地図を見下ろし、細く長い息を吐いた。
「……不愉快な地図だ」
フランスの南には、ピレネー山脈を越えて強大なスペイン・ハプスブルク家が陣取っている。そして東には、神聖ローマ帝国。ここもまた、オーストリア・ハプスブルク家が支配している。
このまま神聖ローマ皇帝フェルディナント二世がプファルツなどの反乱を完全に鎮圧し、ドイツ諸侯をまとめ上げればどうなるか。
東の帝国と、南のスペイン。
二つの巨大なハプスブルク帝国が完全に連携し、我がフランスは東西南北から完全に挟み撃ちにされる。国家の存亡に関わる、最悪の『万力』が完成してしまうのだ。
「枢機卿猊下。ドイツ方面より、例の書物が届きました」
考え込んでいる私の元へ、腹心の部下が恭しく一冊の本を差し出した。
ラーグの本はドイツ・北欧圏だけに留まらず、遠くフランスのパリにも届いていた。
「『ラーグ式要塞理論』か」
私はそれを受け取り、静かにページをめくり始めた。
現在、神聖ローマ皇帝陣営に与しているという、平民上がりの土使いが書いた築城マニュアル。そこには、大砲の威力を殺す低い土塁と、十字砲火を浴びせるための星形に張り出した稜堡の図面が、極めて合理的に描かれていた。
さらに、それを構築するために必要な人員や作業手順までもが、詳細に記されている。
私はページをめくる手を止め、目を細めた。
(……この男を、皇帝に持たせておいてよいのか?)
星形要塞の角度がどうだとか、築城費がいくら浮くかなど、私にとってはどうでもいいことだ。
私が危惧するのは、ただ一点。
『勢力均衡』である。
ラーグ侯という男が築く要塞が強い。それはすなわち、皇帝陣営が強くなることを意味する。
強固な陣地と圧倒的な防衛力によって、現在戦乱が起きているプファルツ地方が皇帝側によって完全に安定化させられてしまうだろう。プファルツが安定すれば、ハプスブルク家の帝国内支配はより一層強化される。
そして帝国内の憂いがなくなれば、皇帝は必ずスペイン・ハプスブルク家との連携を深める。
結果として――我がフランスが、完全に挟まれる。
「……いかんな」
私は本を閉じ、冷たい声で呟いた。
「このラーグという男の存在は、ハプスブルクの覇権を決定づける重石になりかねん。これ以上、皇帝を勝たせるわけにはいかない」
「猊下?」
部下が怪訝そうな顔をした。
「ですが猊下。皇帝軍はプファルツで、プロテスタントの反乱諸侯を相手に戦っております。我がフランスもカトリックの国。同じカトリックの皇帝陛下が勝利するのは、宗教的に見れば喜ばしいことでは?」
私は部下を一瞥し、鼻で笑った。
「国家の存亡に、宗教など関係あるものか」
「なっ……」
「ハプスブルクが強大化し、フランスが挟み撃ちにされて滅びるくらいなら、プロテスタントだろうが異教徒だろうが手を組む。それが政治というものだ」
私は地図上のドイツ方面を指先で強く叩いた。
「プロテスタント諸侯に資金を援助しろ。傭兵を雇わせ、武器を買わせろ。直接フランスが参戦せずとも、彼らに皇帝の足首を掴ませ、泥沼の戦争を続けさせるのだ」
「カトリックの枢機卿たる猊下が、プロテスタントを支援しろと仰るのですか!?」
「そうだ。フランスの国益を守るため、皇帝を叩くのが最も合理的だ」
もはや、そこに宗教的な正義はなかった。
カトリックか、プロテスタントか。そんなものは、神学者が教会の中で議論していればいい。
冷徹なまでの国家理性――レゾン・デタ。
勢力均衡のためならば、私は悪魔とでも手を結ぶ。
「ラーグ侯……。一人の土方が戦場を変えたことで、ヨーロッパの勢力図まで傾きかけているとはな」
実に忌々しいが、同時に実に面白い男だ。
私はまだ、フランスの政治の中枢を完全に掌握しきってはいない。だが、遠からず私がこの国の舵取りをすべて担う日が来る。
その時まで、ハプスブルクの覇権完成を何としても遅らせねばならない。
私は再び『ラーグ式要塞理論』の表紙を撫で、不敵な笑みを浮かべた。
――後世の歴史家はこう語る。
『ラーグ式要塞理論』を読んだ同時代の四人の傑物の反応は、三十年戦争という複雑な事象を、それぞれの視点で見事に切り取っていたと。
スウェーデン王グスタフ・アドルフは、「この防御を、どう突破する?」と戦術の革新を夢見た。
軍事企業家ヴァレンシュタインは、「これで、いくら浮く?」と軍事経済の永久機関を妄想した。
そして、カトリック連盟軍の総司令官ティリー伯爵だけは、「有能な味方でよかった」と、ただ純粋に兵の命が助かることを喜んだのである。
そこへ、フランスの枢機卿リシュリューが、「……この男を皇帝に持たせておいてよいのか?」と、勢力均衡と外交の危機を読み取った。
同じ一冊の本が、戦術、経済、軍務、そして外交という、全く異なる四つの視点で世界を動かし始めていたのである。
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