第36話 大公女クリスティーネ
【オーストリア大公女、クリスティーネ・フォン・エスターライヒ視点】
「ムキーッ! なんで、土木作業員に嫁ぐのよっ! 父上も父上よっ!」
私ことクリスティーネは、朝からカリカリしていました。
ガタゴト、ガタゴト。
石畳を進む馬車の車輪が規則正しく鳴り、窓から入る春風がカーテンを揺らしています。外には緑に染まり始めた丘陵地帯が広がっているというのに、私の心の中は荒れ狂う嵐のようでした。
私の名は、クリスティーネ・フォン・エスターライヒ。
神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント二世と、最初の妻マリア・アンナとの間に生まれた長女です。
一六〇一年生まれの私は、赤子の頃に重い病へかかり、死の淵をさまよったそうです。けれど幸いにも病を乗り越え、今ではすっかり健康に育ち、この春で二十一歳になりました。
ハプスブルク家の姫として生まれた以上、いつか政略結婚をすることになる。それくらいの覚悟は、幼い頃からできていました。
嫁ぐ相手は、他国の王族か、大公か。それなりの家柄を持つ名門貴族でしょう。
そう思っていたのです。
ところが父上が選んだ相手は――。
「平民上がりの、元・土方のおっさんってどういうことなのよ……」
ラーグ・フォン・ハイリゲンローデ侯。
今年で三十九歳。
つい最近まで平民の建設作業員だったにもかかわらず、戦功を重ねて男爵となり、伯爵となり、ついには帝国諸侯にまで列したという、わけの分からない人物です。
しかも、私との年齢差は十八歳。
(十八歳差よ!? 私が生まれた頃には、もう立派な大人じゃない!)
先日、ホーフブルク宮殿の謁見の間で、ラーグ侯本人がこの縁談を告げられた時の話も侍女たちから聞いています。
『十八歳差!? 犯罪じゃないですか!』
『平民上がりの元土方のおっさんですよ!? お姫様が可哀想すぎます!』
そこまで必死になって辞退しようとしたそうです。
(当の本人まで嫌がってるじゃない!)
思い出しただけで、また腹が立ってきました。
とはいえ。
私は、ハプスブルク家の娘です。
父であり皇帝でもあるフェルディナント二世が決めた婚姻を、駄々をこねて拒むわけにはいきません。
だから私は今、大勢の護衛に囲まれながら、ラーグ侯が統治するフランケンタールへ向かっているのでした。
「はぁ……」
ため息をつきながら、座席の横へ置かれた資料へ目を落とします。
父上から渡されたものです。
表紙には、妙な名前が書かれていました。
『スキル残土』
「残土……?」
何度読んでも、まったく皇女の婚約者らしくない名前です。
中には、ラーグ侯が持つ不思議な能力について、これまで確認された事例が細かく記されていました。
大量の土砂や岩を、どこか見えない場所へ収納する。
そして必要な時には、それを一瞬で取り出す。
ドラゴンを大量の土砂で埋め、動きを封じた。
戦場では土塁を築き、要塞を修復した。
さらにフランケンタール攻囲戦では、城壁と同じ高さまで大量の土を積み上げ、巨大な坂を作って兵士たちを城内へ送り込んだという。
「……なんなの、この人」
私は思わず資料から顔を上げました。
ただの土方ではありません。
普通の魔法使いでもありません。
父上は、ラーグ侯についてこう言っていました。
『あの男は戦場を変えるだけではない。国そのものを造り変える力を持っている』
(もしかして、とんでもない野心家なんじゃ……)
平民から帝国諸侯まで一気に駆け上がった男。
魔法のような力を持ち、戦場を変え、皇帝から直接評価されている。
そう考えれば、恐ろしい人物像しか浮かびません。
(権力欲にまみれた、ギラギラした男だったらどうしよう……)
馬車の振動が、急に重く感じられました。
◇◆◇
やがて馬車は、目的地であるフランケンタールへ到着しました。
戦火によって激しく破壊された街。
そう聞いていた私は、焼け落ちた家々や、崩れた城壁が並ぶ暗い光景を想像していました。
ですが――。
「……え?」
馬車の窓から見えた光景に、思わず声が漏れます。
街は、生きていました。
石畳の道には荷車が行き交い、あちこちから金槌を打つ乾いた音が響いています。新しく積まれた壁の間を職人たちが忙しく走り回り、まだ春だというのに、汗を流して働いていました。
そして何より目についたのが、街のあちこちにある灰色の建造物です。
「あれが……コンクリート?」
灰色の泥を木枠へ流し込み、時間がたてば岩のように固まる。
父上から聞かされていた、新しい建築材料です。
砲撃で壊された城壁にも、焼け落ちた建物の基礎にも、その灰色の素材が使われていました。
戦争の傷跡を覆い隠すように、街そのものが急速に生まれ変わろうとしている。
(これを、あの人が……?)
少しだけ、胸の奥の怒りが弱まりました。
「ラーグ侯はどちらに?」
護衛の騎士が、近くを歩いていた職人へ尋ねます。
すると男は、私たちの豪華な馬車を見て目を丸くした後、すぐに笑顔で街の奥を指さしました。
「ああ、領主様なら、あっちの現場で泥まみれになってるよ!」
「……泥まみれ?」
私は思わず聞き返しました。
帝国諸侯に列したばかりの侯が。
泥まみれ?
どういうことなのでしょう。
◇◆◇
私は馬車を降り、護衛の騎士たちと一緒に教えられた場所へ向かいました。
近づくにつれて、石灰のような独特の匂いが鼻をくすぐります。
そこでは十数人の男たちが、灰色のドロドロとしたものを木枠の中へ流し込んでいました。木槌を打つ音。職人たちの掛け声。靴の底へまとわりつく湿った土。
そして、その中心に一人の男がいました。
「おいおい! そっちの型枠、もっとしっかり固定しろ! コンクリが漏れるぞ!」
「へい、組合長!」
(……組合長?)
私は思わず足を止めました。
立派な礼服も着ていません。
宝石もありません。
腰には剣ではなく、使い込まれた道具。
服も靴も泥だらけです。
その男が自分の手で木枠を押さえ、職人たちと一緒になって働いていました。
(まさか……)
私は半信半疑のまま、その男の前へ歩み出ました。
「あなたが、ラーグ・フォン・ハイリゲンローデ侯ですか?」
できるだけ皇女らしく、凛とした声で問いかけます。
「ん?」
男が振り返りました。
そして私を見るなり、ビクッと肩を跳ねさせました。
土と汗にまみれた顔。
年齢は確かに四十手前でしょう。
ですが、資料を読んで想像していたような威圧感も、野心に満ちた鋭い目つきもありません。
むしろ私の豪華なドレスと、背後に並ぶ護衛の騎士たちを見た瞬間、見る見るうちに顔を引きつらせていきました。
「あ、はい……俺がラーグですが。えっと……もしかして」
嫌な予感が当たった、とでも言いたげな顔です。
私はスカートの裾をつまみ、優雅に腰を落としました。
「オーストリア大公女、クリスティーネ・フォン・エスターライヒです。父上……皇帝陛下の勅命により、あなたのもとへ参りました」
カーテシーを終え、顔を上げます。
カランッ。
目の前の男が、持っていた道具を地面へ落としました。
「ほ、本物の皇女様だぁ……!」
ラーグ侯の顔から、一気に血の気が引きました。
「い、いや、すいません! 俺、こんな泥だらけの格好で! すぐ着替えてきますんで!」
「え?」
「おい、誰か水! いや、その前に服だ! まともな服どこやったっけ!?」
「侯爵閣下、落ち着いてください!」
護衛の騎士まで慌て始めます。
ラーグ侯は泥のついた手をどこへ置けばいいのか分からないらしく、両腕を宙へ浮かせたまま完全に混乱していました。
(この人が……私の夫になる人?)
呆気に取られてしまいます。
ウィーンの宮廷にいる貴族たちとは、何もかもが違いました。
彼らは美しい服を着て、洗練された言葉を使い、その笑顔の裏で絶えず相手の家柄や権力を値踏みしています。
けれど、目の前の男からは、そんな匂いがまるでしません。
皇帝の娘を前にしているというのに、どう取り入るかを考えるどころか、自分の泥だらけの服装に狼狽しているだけ。
そして、その後ろでは。
彼が直している街が、確かに息を吹き返していました。
「ふふっ……」
気づけば、小さく笑い声が漏れていました。
「え? あの、大公女殿下?」
ラーグ侯が困惑した顔でこちらを見ます。
「クリスティーネで構いませんわ、旦那様」
「だ、旦那様!?」
今度は顔が真っ赤になりました。
なんだか、少し面白くなってきました。
「泥まみれの侯爵様なんて、生まれて初めて見ましたけれど……」
私は彼の後ろに広がる工事現場へ視線を向けました。
「その街を直すお仕事、もう少し近くで見学させていただいてもよろしいですか?」
「……見学、ですか?」
「ええ。あなたが何をしている人なのか、自分の目で見てみたいのです」
ラーグ侯は目を丸くしました。
やがて、泥のついていない場所を探すように頭へ手を伸ばし、困ったようにかきます。
「……はい。俺の自慢の現場ですから、いくらでも」
その声だけは、先ほどまでとは違っていました。
少し照れくさそうで。
けれど、どこか誇らしげでした。
土木作業員のおじさんとの政略結婚。
馬車の中では、最悪だと思っていました。
けれど――。
(案外、退屈はしなさそうですわね)
春風に乗って、職人たちの威勢のいい掛け声が聞こえてきました。
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