第35話 ラーグ侯の誕生と縁談
【フェルディナント二世視点】
聖暦一六二二年、春。
ウィーン、ホーフブルク宮殿。
窓の外には、うららかな春の陽光が降り注いでいた。手入れの行き届いた庭園では、木々が青々とした若葉を揺らしている。
私は執務室の机に広げられた報告書へ目を通し、満足げに羽ペンを置いた。
「驚異的だな」
「はい、陛下」
傍らに控える最側近、ヨハン・ウルリヒ・フォン・エッゲンベルクが静かに応じた。
彼がもたらした報告書は、下プファルツのフランケンタールからのものだった。
あのラーグ・フォン・ハイリゲンローデ伯爵が、またしても常識外れのことをしでかしている。
灰色の泥を型へ流し込み、やがて岩のように固めてしまう『コンクリート』なる新素材。それを用いて、破壊された城壁や市街を信じられない速度で再建している。親方の一人をウィーンへよこして実演してくれたが、それは素晴らしい技術だった。
それだけではない。
ザール地方の炭坑まで視察に出向き、自らの奇妙な力で坑道を整備し、石炭の増産まで成し遂げてしまったらしい。
「築城、軍需、そして今度は産業の基盤まで……。あの男は戦場を変えるだけではない。国そのものを造り変える力を持っている」
「いかにも。もはや、ただの便利な土方などではありません」
エッゲンベルクの表情は硬かった。先日、ウィーン郊外の雪原で一瞬にして星形要塞を築いてみせた時、彼はこう言った。
『この男を、敵へ回してはなりませぬな』
まさに、その通りだった。
「陛下。あの男を放置すれば、遠からず他国が目をつけましょう。フランス、スウェーデン、あるいはオランダ……。もし彼が他国へ引き抜かれれば、我が帝国にとって取り返しのつかない脅威となります」
「分かっている。ドイツ諸侯も黙っておるまい」
私は椅子の背へ深く体を預けた。
ラーグ伯爵は現在、ヘッセン方伯の配下にある男爵でありながら、私の直臣としてフランケンタール伯も兼ねている。
だが、それだけでは足りない。
要塞を造り、コンクリートを生み出し、戦争そのものを変え始めている男だ。
金や領地を与えるだけなら、他国でもできる。
あの欲のない男が金でなびくとは思えないが、面倒事を嫌う性格ゆえに、何かを理由に帝国の外へ逃げ出す可能性はゼロではない。
ならば――。
以前から考えていたことを、実行に移す時が来た。
「こいつを、ハプスブルク家そのものに取り込んでしまえばよい」
「……娘君を、降嫁させると?」
「うむ」
私は確信を持ってうなずいた。
私には、最初の妻マリア・アンナとの間に生まれた長女がいる。
オーストリア大公女、クリスティーネ・フォン・エスターライヒ。
一六〇一年生まれの彼女は、赤子の頃に重い病へかかり、死の淵をさまよった。
あの時は、本当に神へ祈ったものだ。
だが、クリスティーネは奇跡的に病を乗り越え、今では見違えるほど健康で美しく成長した。
この春で二十一歳。
そろそろ嫁ぎ先を決めねばならぬ時期でもあった。
「クリスティーネは私の自慢の娘だ。あれをラーグの妻とする」
「しかし陛下。皇帝の実の娘を、いくら功績があるとはいえ伯爵へ嫁がせるのは……相当な格差婚になりますぞ。宮廷の貴族たちが黙ってはおりますまい」
エッゲンベルクの懸念はもっともだ。
ハプスブルク家の姫君であれば、他国の王や大公へ嫁ぐのが通例である。
「だからこそ、先に手を打つ」
私は口角を上げた。
「まずはラーグの地位を、引き上げるのだ」
◇◆◇
数日後。
ホーフブルク宮殿、謁見の間。
シャンデリアの眩い光が降り注ぐ中、呼び出されたラーグ・フォン・ハイリゲンローデ伯爵が、私の前へ立っていた。
「お呼びとあらば。フランケンタール伯ラーグ、罷り越しました」
恭しく頭を下げるその顔には、『また仕事が増えるのか』という警戒感がありありと浮かんでいる。
相変わらず、裏表がなくて面白い男だ。
私は玉座から彼を見下ろし、厳かに口を開いた。
「大儀である、ラーグ。そなたがフランケンタールの復興に尽力していること。そしてコンクリートや石炭の増産など、帝国へ多大な貢献をもたらしていること、余は高く評価しておる」
「はっ。もったいないお言葉で」
「よって、その多大なる戦功と、築城・軍需への貢献に報いるため、そなたに新たな地位を授ける」
ラーグの肩が、ビクッと跳ねた。
「……地位、ですか?」
「うむ」
私は声を張り上げた。広間に控える、すべての諸侯や貴族たちへ聞こえるように。
「ラーグ・フォン・ハイリゲンローデ。余はそなたを、もはや単なる臣下とは考えておらぬ。よって、帝国諸侯――フュルストに列する。これよりそなたは、ラーグ侯である!」
「…………は?」
ラーグの口から、間抜けな声が漏れた。
次の瞬間、謁見の間が大きなどよめきに包まれる。
無理もない。
伯爵から帝国諸侯への引き上げは、破格中の破格の待遇だ。これで彼は、帝国内で強大な権力を持つ限られた諸侯の仲間入りを果たすことになる。
「こ、侯爵!? いやいやいや!」
ラーグは慌てて顔を上げ、両手を激しく振った。
「陛下! 俺……いや私は、ただの土方でして! 伯爵でも荷が重いのに、帝国諸侯なんて無理です! 絶対無理です!」
「遠慮するな。勅命である」
エッゲンベルクが冷徹な声で、ピシャリと告げた。
「ええええ……」
ラーグが頭を抱え、その場に崩れ落ちそうになる。
だが、私の話はここで終わりではない。
ここからが本題なのだ。
「ラーグ侯」
「……はい?」
慌てているラーグが、すがるような目を向けてくる。
私は立ち上がり、彼へ向かって最大の爆弾を投下した。
「娘を娶れ」
「…………」
ラーグの動きが完全に止まった。
数秒の沈黙。
「はい!?」
広間に、先ほどよりも大きな悲鳴が響き渡った。
「む、娘って……皇帝陛下の!?」
「いかにも。我が長女、クリスティーネ・フォン・エスターライヒである」
「うおおおおおい!?」
ラーグ候は完全に貴族の言葉遣いを忘れているが、今回ばかりは許してやろう。
「そ、そんな馬鹿な! 俺は今年で三十九歳ですよ!? 陛下の娘さんって、いくつか知りませんけど、絶対若いですよね!?」
「二十一歳だ。病を乗り越えて健康に育った、余の自慢の娘であるぞ」
「十八歳差!? 犯罪じゃないですか!」
「犯罪とはなんだ」
私は思わず苦笑した。
「政治的な政略結婚において、その程度の歳の差など珍しくもなんともない。それに、そなたは今や帝国諸侯だ。皇帝の娘を正妻に迎えるに、何の不足がある」
「いや、不足だらけですよ! 平民上がりの元土方のおっさんですよ!? お姫様が可哀想すぎます!」
必死に辞退しようとするラーグ。
だが、すでに私の決意は固い。
「決まったことだ、ラーグ侯。これは皇帝の娘を託すという、余からの最大の信頼の証である」
私は彼へ、有無を言わさぬ圧を放った。
「それとも、我がハプスブルクの姫君が不満だと申すか?」
「…………」
ラーグは完全に言葉を失った。
これ以上断れば、不敬どころか皇帝の顔に泥を塗ることになる。
彼ほどの賢さ――そして臆病さがあれば、その意味は痛いほど分かっているはずだ。
「……謹んで、お受けいたします」
ついに観念したのか、ラーグ侯は深々と頭を下げた。
嬉しい事は嬉しいのだろうが、それだけではない感情があるように見える。
「はっはっはっはっ!」
私はたまらず、高らかに笑い声を上げた。
「よい返事だ! 婚姻の儀は近いうちに執り行う。準備を進めておけ!」
こうして。
帝国一の奇才にして、土方上がりのラーグ侯は、我がハプスブルク家の陣営へ完全に組み込まれることとなった。
我が愛娘クリスティーネも、この底知れぬ男のそばにいれば、きっと退屈しない面白い人生を送るであろう。
謁見の間を後にするラーグ侯は、傍らの女騎士たちに申し訳なさそうにしていた。
だが、その背中を見送る私の胸の奥には、新たな時代への期待が満ちていたのである。
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