第33話 俺の趣味、のんびりマニュアル集め~1622年・春編~
【ラーグ視点】
聖暦一六二二年、春。
風が春めき、暖かく吹き抜けるフランケンタールの街。
冬の寒さもようやく緩み、通り沿いの木々には小さな若葉が芽吹き始めていた。
俺が持ち込んだコンクリートによる復興工事も、ようやく軌道に乗っている。
戦いで傷ついた建物は少しずつ修復され、崩れていた道路も整えられた。広場には露店が戻り、パン屋からは焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。
少し前まで兵士たちが行き交っていた街に、子供たちの笑い声まで聞こえるようになった。
「うん。平和っていいな」
俺はしみじみと呟いた。今日は久しぶりの休日だ。朝から現場へ行く必要もない。皇帝陛下からの命令書も届いていない。誰かが攻めてきたという知らせもない。ドラゴンも飛んでこない。素晴らしい一日である。
俺は、白い麻のブラウス姿のレイラと、黒い革鎧に双剣を帯びたミラを連れて、街のレストランで昼食を楽しんだ。
分厚く焼かれた豚肉に、香草を効かせたソース。付け合わせには茹でた豆とパン。それを赤ワインで流し込む。
「うまかったなぁ」
店を出た俺は、満足して腹を撫でた。
「食べすぎじゃないのかい?」
レイラが笑う。
「今日は休みなんだからいいだろ」
「そのお腹で走れますの?」
ミラがちらりと俺の腹を見る。
「走らん。今日は絶対に走らん」
俺は断言した。今日は戦争をしない。建築もしない。土も出さない。何もしない。ただ、のんびりする。
「平和だねぇ。毎日こんな日が続けばいいのにさ」
レイラが大きく背伸びをしながら笑った。
「本当に。ラーグ様がまた妙な仕事を引き受けなければ、ですが」
ミラがくすくすと笑いながら、俺を横目で見る。
「人聞きの悪いこと言うなよ。俺だって平和にのんびり土方してたいんだから」
「伯爵になっても土方なんだねぇ」
「伯爵になったからって、急に趣味が舞踏会になるわけじゃないだろ」
俺たちはそんな軽口を叩きながら、フランケンタールの街をぶらぶらと歩いた。
道端では職人たちが壊れた屋根を直している。別の場所では新しい石畳を敷いていた。つい仕事目線で見てしまう。
(あそこの排水、もう少し勾配つけた方がいいな)
いやいや。今日は休みだ。仕事のことは考えない。そう思っていた時だった。
「……おっ」
通りの向こうに、一軒の本屋を見つけた。古びた木製の看板。窓辺には何冊もの革表紙の本が並べられている。
カッセルでもそうだったが、俺はこういう店を見つけると、つい入りたくなってしまう悪い癖がある。
「ちょっと寄っていいか?」
「また本屋ですの?」
ミラが露骨に嫌そうな顔をした。
「ラーグ様は本当にこういうのがお好きですわね」
「見るだけ。見るだけだから」
「その言葉、前にも聞いた気がするよ」
レイラまで笑っている。俺は二人の視線を無視して、本屋の扉を開いた。
カラン。
小さな鐘が鳴る。薄暗い店内には、インクと古い紙、それに革表紙の独特な匂いが漂っていた。棚という棚に本が詰め込まれ、奥には巻物まで積み上げられている。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうから、白髪の店主が顔を出した。
「好きに見ていってくだされ」
「おう」
俺はもう店の中へ吸い込まれていた。
他の貴族たちなら、絵画や宝石、名馬や猟犬なんかを収集して喜ぶのだろう。
だが俺は違う。
戦記や英雄譚には目もくれない。図面の載った技術書。施工方法をまとめた本。職人向けの手引書。そういうものを買い漁るのが趣味だった。
前世でも、ホームセンターの工具売り場を眺めているだけで一時間くらい潰せる男だったのだ。
「おっ、いいのがあるな」
俺のテンションが一気に上がる。
棚から引き出したのは、アグリコラが著した『デ・レ・メタリカ』だった。
一五五六年に刊行された本で、鉱山、坑道、排水、鉱石運搬、機械、製錬について図解入りで詳しく書かれている。
俺はその場でページをめくった。
坑道。
巻き上げ機。
排水設備。
鉱石を運ぶための装置。
(たまらん……)
土を掘り残土を集める男が、鉱山技術書にハマる。
完全に趣味だ。
「ラーグ、顔が怖いよ」
「何が?」
「すごく嬉しそうなのに、目だけ真剣なんだよ」
「いい本なんだぞ、これ」
「知らないよ」
レイラは呆れたように肩をすくめた。
次に手に取ったのは、ビリングッチョの『ピロテクニア』。金属精錬や鋳造、火薬などを扱う技術書だ。
「これもいいな」
脇に抱える。
「それも買うんですの?」
「もちろん」
「まだ一冊目を読み終えてもいませんわよ?」
「本というのはな、欲しい時に買わないと二度と出会えないことがあるんだ」
「急に説得力のあることを言わないでくださいまし」
そして。極めつけの危険物を見つけた。
「おお……!」
ラメッリの『さまざまな巧妙な機械』。一五八八年に刊行されたこの本には、水車、ポンプ、揚水機、運搬装置などの図版が大量に載っている。
ページをめくる。
水を汲み上げる機械。
歯車。
滑車。
水車。
またページをめくる。
(うわー、これ作りてぇ……)
建設作業員の血が騒ぐ。後でゲルト親方のところへ持っていこう。一緒に図面を見ながら酒を飲んだり、試作したら絶対に盛り上がる。
(いや、この揚水機なんて村でも使えるんじゃないか?)
いかん。もう仕事のことを考えている。今日は休みなのに。それでも俺の手は止まらなかった。
道路施工。
橋梁。
排水。
井戸掘り。
採石。
煉瓦。
石灰。
測量。
荷車。
粉挽き水車。
目についた「普通の土木・建築マニュアル」を次々と脇に抱え込んでいく。気づけば、両腕いっぱいになっていた。
「ねぇ、ミラ」
後ろからレイラの小声が聞こえる。
「あのおっさん、また目がマジになってるよ」
「ええ……」
ミラも小声で答えた。
「ラーグがまた何か国家を変える本を買ってますわね……」
「今度はどんな化け物みたいなものを作る気だい……」
「聞こえてるぞ」
二人が黙った。
「俺にとっては普通の本だ」
「普通の人は、休日に排水設備の本を読んで喜びませんわ」
「そうか?」
「そうですわ」
俺は首を傾げた。人聞きの悪い。ただの平和な趣味のつもりなのに。そんな中。店の奥の棚で、一際目を引く本を見つけた。
「おっ、これ図入りじゃん!」
俺は抱えていた本を一度机へ置き、その一冊を抜き取った。
「今度は何の本ですの?」
ミラが覗き込んでくる。
「大砲の撃ち方と、要塞の作り方だ」
「……趣味が仕事ですわね」
ミラが肩をすくめる。
「違う違う。これは勉強じゃなくて趣味」
「何が違うんだい?」
「気分」
レイラが吹き出した。
それはディエゴ・ウファノが著した『砲術論』だった。一六一三年に刊行された、フランドル戦争の経験をもとにした砲兵マニュアルである。
砲の種類。
口径。
砲弾。
火薬。
照準。
運用方法。
図解とともに、かなり細かく書かれている。
「へぇ……」
これは面白い。
「旦那、その本に興味がおありで?」
店主が声をかけてきた。
「ああ。珍しい本なのか?」
「少し前まで、この街を包囲していたスペイン軍がおりましたでしょう」
「ああ」
嫌というほど知っている。
「その軍にいた士官が置いていったものです。荷物を減らしたかったのでしょうな」
「コルドバ将軍のところの兵士か」
「おそらくは」
俺はもう一度、本へ目を落とした。つまり、かなり新しい実戦経験が詰まった本ということだ。
「これは買いだな」
ドンピシャで現場の役に立つ最新の知識だ。
俺はページをめくっていく。
砲台の配置。
射角。
射界。
敵陣への砲撃。
そこで。
ふと、俺の手が止まった。
(待てよ……)
図に描かれた砲台を見る。
(砲台って、要塞の低い土塁から撃つようにしてるけど……)
もう少し高ければ、周囲を見渡しやすくなる。遮蔽物にも邪魔されにくい。射界も広く取れる。
(だったら、もっと高いところに砲台を作ればいいんじゃないか?)
普通なら難しい。高い砲台を作るには土を運び、盛り、固めなければならない。大砲そのものを上まで運ぶ必要もある。時間も人手もかかる。
でも。
俺なら――。
「ラーグ?」
俺が急に黙り込んだのを見て、レイラが首を傾げた。
「いや、なんでもない」
俺は本をパタンと閉じた。
危ない危ない。今日は休日だ。仕事のことを考える日じゃない。
「よし、オヤジさん!」
俺は机の上へ大量の本を積み上げた。
「これ全部もらうよ!」
「ぜ、全部ですか?」
今度は店主が固まった。
「ああ」
「ラーグ様」
ミラがため息をつく。
「それ、どうやって持って帰るおつもりですの?」
「…………」
積み上がった本を見る。俺一人では抱えきれない。
レイラを見る。
「嫌だよ」
何も言っていないのに断られた。
ミラを見る。
「わたくしも嫌ですわ」
「まだ何も言ってないぞ」
「顔に書いてありますもの」
結局、店主から木箱を二つ譲ってもらい、荷車まで借りることになった。大量のマニュアルを積んだ荷車を引きながら、俺たちは本屋を後にする。
「休日なのに、結局荷車を引いてるねぇ」
レイラが笑った。
「いいんだよ。満足してるから」
俺はホクホク顔だった。
今日は戦争をしていない。
城も作っていない。
誰かを埋めてもいない。
ただ本を買っただけだ。
実に平和な休日である。この時の俺は、本当にただの趣味で本を集めているだけだった。
だが。ウファノの砲術書を読んでいる最中に思いついた、ほんの些細なアイデア。高い場所から撃てば、もっとよく見える。ただ、それだけの発想。それが十年後。
『野戦高所射撃台』
という、とんでもない形で戦場に姿を現し、再び歴史に名を残すことになるとは――。この時の俺は、まだ知る由もなかったのである。
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