第30話 ホーフブルク宮殿の新年会
【ラーグ視点】
聖暦一六二二年、一月。
冬のウィーン。その中心に、白い空を背負うようにしてホーフブルク宮殿がそびえていた。
石造りの建物を冷たい風がなで、窓の外には薄く雪が残っている。だが宮殿の中へ一歩入れば、外の寒さが嘘のようだった。磨き上げられた床。壁を飾る絵画。金色に輝く装飾。そして、行き交う貴族たちから漂う香水の甘い匂い。
「……なんか、思ってたのと全然違うんだけど」
俺は豪華絢爛な宮殿の廊下の隅で、小さくため息をついた。
フランケンタールで『落ち着いたら一度ウィーンに来い』という皇帝陛下からの手紙を受け取った俺は、年が明ける前にこの帝都へやって来ていた。
てっきり、お偉いさんたちが集まって酒を飲み、うまい飯を食う。前世でいうところの『新年会』みたいな宴会に呼ばれたのだと思っていた。
とんでもない勘違いだった。
ハプスブルク家の宮廷における新年は、『新年拝賀』と呼ばれる厳粛な宮廷儀礼で始まるらしい。
元日の今日、諸侯や貴族、各国の外交使節たちが、皇帝フェルディナント二世陛下へ新年の挨拶をするため次々と参内している。
しかも、誰でも皇帝陛下へ直接挨拶できるわけではない。身分によって、直接拝謁できる者と、宮内長官を通して挨拶する者まで分けられているという。
「そりゃそうだよなぁ。神聖ローマ皇帝の新年会が、俺の知ってる会社の飲み会と同じなわけないよな……」
俺は慣れない礼服の首元へ指を入れた。
苦しい。
泥だらけの作業着なら一日中着ていられるのに、金糸で飾られた上等な服は一刻も早く脱ぎたかった。
ちなみに、フランケンタールの留守はパレウスさんに任せてある。
「復興の土木工事は俺がやりますが、新年の難しい話はお願いします」
そう言って、ほとんど押し付けるようにしてウィーンへ逃げてきた。
なのに、逃げた先が皇帝の宮殿である。
(俺、選択を間違えたんじゃないか?)
「何を緊張しておいでですの、ラーグ様」
「そうさ。アンタ、一応フランケンタール伯爵様なんだから、もっと堂々としなよ」
背後から聞き慣れた声が飛んできた。
振り返ると、ミラとレイラが立っていた。
二人は今日、俺の同行者――『騎士』という名目で宮廷までついてきている。
普段の傭兵らしい格好でも、気楽なブラウス姿でもない。今日は宮廷へ入るため、二人ともきちんとした騎士の正装に身を包んでいた。
レイラの蜂蜜色の髪はきれいに整えられ、ミラもいつもの物騒な雰囲気を少しだけ隠している。
これがまた、妙に似合っているから困る。
「お前らは気楽でいいよな。俺なんか、いつ粗相をするかヒヤヒヤしてるんだぞ」
「粗相って、何をするつもりなんだい」
「知らねぇよ。だから怖いんだよ」
「ラーグ様でしたら、黙って立っていればそれなりに見えますわ」
「それ、褒めてないだろ」
俺がぼやいていると、靴音が廊下へ規則正しく響いた。
宮廷の侍従が一人、こちらへ向かってくる。
俺たちの前で立ち止まると、ぴしりと姿勢を正した。
「ラーグ・フォン・ハイリゲンローデ伯爵閣下。陛下がお呼びです」
「……えっ?」
思わず聞き返した。
「俺、新年の挨拶だけですよね?」
侍従は恭しく頭を下げる。
「……陛下が、ぜひ直接お話をしたいと仰っております」
(絶対ろくなことにならないやつだ!)
◇◆◇
案内された謁見の間は、目が痛くなりそうなほど豪華だった。
高い天井には美しいフレスコ画が広がり、巨大なシャンデリアが無数の光を床へ落としている。磨かれた石の床へ自分の姿が映るたび、場違いな場所へ迷い込んだ気分になった。
その奥。
一段高くなった場所に置かれた玉座へ、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント二世陛下が座っていた。
以前、カッセルで『ラーグ式要塞理論』を献上した相手であり、俺を伯爵に引き上げた張本人でもある。
「よく来たな、ラーグ伯爵」
皇帝陛下の声が、静かな謁見の間へよく響いた。
しかも、やけに機嫌がいい。
嫌な予感がした。
「ははっ。新年のお慶びを申し上げます、陛下」
俺は前世の時代劇の記憶を総動員して、なんとかそれっぽく頭を下げた。
「うむ。そなたがフランケンタールで励んでいることは、余の耳にも届いておるぞ」
皇帝陛下が楽しそうに目を細める。
「聞けば、灰色の泥を流し込み、岩のように硬い壁を瞬く間に作っているそうではないか」
(ずいぶん耳の早い皇帝陛下だな、オイ!)
俺は顔に出さないよう必死になりながら、心の中で激しくツッコんだ。
コンクリートを作り始めてから、まだそれほど時間は経っていない。
フランケンタールでは壊れた城壁や建物の修復に使い始めたばかりだ。それなのに、もう遠く離れたウィーンの皇帝陛下まで知っている。
皇帝というものは、俺が想像している以上に耳が長いらしい。
「その『コンクリート』とやら、実に見事なものだな。どうだ、ラーグよ」
皇帝陛下が少し身を乗り出した。
「今度は、そのコンクリートの作り方を余に教えよ」
「……はい?」
一瞬、聞き間違いかと思った。
「先の要塞理論のように、本にまとめてもよい。いや、直接職人を送って作り方を示してもよいぞ」
無茶振りである。
要塞理論の次は、コンクリートの製法マニュアルを作れというのだ。
「ええと……それは……」
「できぬとは言わせんぞ?」
皇帝陛下はニコニコと笑っている。
だが、その目が笑っていない。
『絶対にやれ』
俺には、そう言っているようにしか見えなかった。
(ここで断ったら、不敬罪で首が飛ぶか……?)
いや、さすがにそこまではないと思いたい。
思いたいのだが、目の前にいるのは神聖ローマ皇帝である。
平民上がりの俺が、
『面倒なので嫌です』
などと言えるはずがない。
俺は覚悟を決め、深く頭を下げた。
「……喜んで。至急、手配いたします」
快諾するしかなかった。
「はっはっは! よい返事だ!」
皇帝陛下は満足そうに大きくうなずいた。
「お主は帝国の防衛の要ゆえ、ハイリゲンローデの星形要塞に加え、フランケンタールの防備まで固めてくれるとは、誠に頼もしい限りだ」
それから鷹揚に手を振る。
「大儀であった、ラーグ。今宵の祝宴では、ゆっくりと羽を伸ばされよ」
「は、ははっ。ありがたき幸せに存じます」
俺は冷や汗をかきながら頭を下げた。
(羽を伸ばすどころか、仕事が増えたんですけど……)
もちろん、口には出さなかった。
◇◆◇
その日の夜。
宮廷の大広間では、昼間の厳かな空気が嘘のような盛大な祝宴が開かれていた。
楽器の優雅な音色が高い天井へ響き、何百本ものろうそくが黄金色の光を揺らしている。きらびやかなドレスをまとった貴婦人たちが笑い、勲章を胸に下げた諸侯や貴族たちがワインの杯を交わしていた。
長いテーブルには、香ばしく焼かれた肉や色鮮やかな果物、見たこともない料理が所狭しと並んでいる。
確かに、酒と飯はうまい。
「これ、うまいねぇ」
「こちらのお肉も絶品ですわよ」
レイラとミラは、ちゃっかり高そうな肉を皿へ山盛りにしていた。
「お前ら、本当に遠慮しないよな」
「せっかく皇帝陛下が出してくれてるんだ。食わなきゃ失礼だろ?」
「その理屈は絶対おかしい」
俺も苦笑しながらワイングラスを傾ける。
口の中へ芳醇な香りが広がった。
うまい。
うまいのだが――心は重かった。
(要塞の次はコンクリートか……)
新年早々、またしても皇帝から宿題を背負わされてしまった。
しかも、フランケンタールの復興工事はまだ始まったばかりだ。壊れた建物を直し、城壁を修復し、人々が安心して暮らせる街へ戻さなければならない。
その仕事を進めながら、今度は帝国中へコンクリートの作り方を伝える準備までしなければならなくなった。
(俺、ただの平和な土方になりたかっただけなんだけどなぁ……)
窓の外では、冬の夜のウィーンに細かな雪が舞い始めていた。
暖かな広間。
華やかな音楽。
笑い合う貴族たち。
その中で俺だけが、新年早々増えてしまった仕事のことを考えている。
俺は手元のワインを一息に飲み干した。
聖暦一六二二年。
新年早々。気は重いが、まあなんとかなるだろう、くらいに考えることにした。
素直に料理を楽しむことにして、レイラとミラと楽しく過ごすのであった。
(まあ、数え年で三十九歳になったことだけは、いただけないけどな!)
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