第27話 神頼みしたら助かった件
【ラーグ視点】
秋の冷たい風が、砲撃の爪痕が残るフランケンタールの街を吹き抜けていく。
皇帝フェルディナント二世陛下からウィーンへ来いと呼び出され、完全に絶望した俺だったが、だからといって目の前の現実が消えてくれるわけではない。
「……とりあえず、片付けなきゃならない仕事はあるよなぁ」
俺はフランケンタール城内の執務室で、深くため息をついた。
要塞の修復。
街の復興。
そして何より、この広大な領地の統治である。
スコップ一本で済む仕事なら、いくらでもやる。
だが、領主の仕事となると話は別だった。
「なあ。俺、カッセルの方でも男爵をやってるんだけどさ」
俺は目の前に立つ、生真面目そうな市の役人へ声をかけた。
「こっちでも俺が伯爵になったんだから、必要なら俺のやり方でルールを決めていいんだよな?」
カッセルでは、必要が出るたびに方伯様が命令を出していたし、俺もハイリゲンローデでは現場の判断で仕事を進めてきた。
ところが役人は、眼鏡の奥の目を細めて首を横に振った。
「いえ、閣下。こちらには法典がございます」
ドスンッ!
重い音とともに、俺の机の上へ巨大な本が置かれた。
「……なんだこれ。分厚すぎないか?」
「一六一一年にハイデルベルクで刊行された、『ライン宮中伯領改訂領邦法』でございます」
役人は、なぜか誇らしげに胸を張った。
「当プファルツ領では、裁判手続、証拠の扱い、判決執行をはじめ、貸借、売買、保証、質権など、広い範囲が法典としてまとめられております。遺言と、遺言を残さず亡くなった場合の相続についても規定がございます」
「……マジで?」
俺は恐る恐る、その分厚い本を開いた。
パラリ。
パラパラ。
文字。
文字。
文字。
「うわぁ……」
カッセルとは、まるで仕組みが違う。
ヘッセンでも昔、大きな統一法典を作ろうとしたことはあったらしい。だが結局、正式な法律としては成立せず、カッセルでは都市ごとの古い法や慣習、領主の命令などを組み合わせて運用している。
ところがプファルツでは、こうして大きな法典が実際に使われているのだ。
「カッセルとフランケンタールって、こんなに違うの?」
「法域が異なりますから、当然でございます」
「同じ帝国なのに?」
「同じ帝国だから同じ法律、というわけではございません」
「ややこしいなぁ……」
俺は頭を抱えた。
だが。
ページをめくっているうちに、俺の指が次第に速くなっていった。
(待てよ)
裁判のやり方。
役人の仕事。
売買。
相続。
道路。
橋。
建物。
(これって、要するに……)
俺は本から顔を上げた。
(超巨大なマニュアルじゃないか!?)
最近の俺は、軍事教練書を集めるのがちょっとした趣味になっている。
知らない仕事でも、きちんと手順が書いてある。
問題が起きても、本を開けば答えが載っている。
マニュアルとは、人類が生み出した偉大な発明なのだ。
「おい! こっちの『領邦規則』も見せてくれ!」
「は、はい」
別の本を受け取り、夢中になってページをめくる。
「あった! 道路や橋を良好な状態に保てって書いてあるぞ! 建物の維持も、木材の管理もある!」
「はい。公共の管理は、領主や役人にとって重要な仕事でございます」
「……伯爵って、政治家じゃなかったのか?」
「公共土木も立派な統治でございます」
ガタッ!
俺は勢いよく立ち上がった。
「それなら任せろ!」
政治は分からない。
裁判なんてもっと分からない。
だが、道路を造れ。
橋を直せ。
建物を修理しろ。
それなら話は別だ。
「よーし! じゃあまず要塞を直して、それから城壁の外の川だな! 邪魔な堤を少し切って、残土を出して流れを変えるか!」
「閣下、それは法に触れます」
「は?」
即答だった。
役人は俺から本を取り上げると、慣れた手つきで別のページを開いた。
「こちらをご覧ください。堤や堤防を切り破る行為について、刑事法に規定がございます」
「まだ何もしてねえぞ!?」
「なさる前に止めているのでございます」
「伯爵本人がやるのに!?」
「伯爵閣下であっても、周辺の土地や水の利用権を無視して好き勝手に川を変えてよいわけではございません」
「…………」
俺は静かに椅子へ座り直した。
マニュアルが細かすぎるのも考えものらしい。
「じゃあ、この前の揉め事はどうするんだよ。カッセルの商人と、こっちの石工が建築代金で揉めてただろ?」
「はい」
「面倒だから両方カッセルへ呼んで、俺がまとめて裁判する」
「できません」
「なんで!?」
役人は冷ややかな目で俺を見た。
「当領の臣民を、勝手に他領の法廷へ連れ出すわけにはまいりません」
「俺、両方の領主なんだけど!?」
「それとこれとは別でございます」
「俺が同じなのに!?」
「法域は別でございます」
「…………」
なんだ、その理屈。
いや、法律だから理屈なんだろうけど。
俺の頭が痛くなり、机へ突っ伏した。
伯爵になれば何でも自由にできる。
そんな甘い話ではなかったらしい。
むしろカッセルにいた頃の方が楽だった。
分からなければ方伯様に聞けばよかったのだから。
「……ちょっと外の空気吸ってくる」
「閣下、午後には都市参事会との――」
「聞こえなーい」
俺は現実から逃げるように執務室を飛び出した。
◇◆◇
秋の冷たい風に吹かれながら、俺はフランケンタールの街を歩いた。
砲撃で欠けた石壁。屋根を焼かれた家。割れた窓。
土と焦げた木材、それにわずかな火薬の匂いが残っている。
俺が攻城戦で壊した場所だってある。
早く直してやりたい。
それなのに、何かやろうとするたび、
『その工事は法に触れます』
『その権利は都市にございます』
『その件はギルドとの協議が必要です』
なんて言われる。
(俺、やっぱり領主なんて向いてないよ……)
気づけば、街の中にある教会の前まで来ていた。
別に熱心な信徒というわけじゃない。
ただ、静かな場所へ行きたかった。
重い扉を開ける。
中は驚くほど質素だった。
高い天井。
白い壁。
飾り気のない石造りの床。
大きな窓から差し込む淡い光が、静かな礼拝堂を柔らかく照らしている。
俺は長椅子へ腰を下ろし、両手を組んだ。
「…………」
どうやって祈るんだっけ。
まあいいか。
「神様」
小さな声で呼びかける。
「法律に詳しくなくてもいい。頭が良くて、こういう面倒な話を整理してくれる人を一人ください」
我ながら、ものすごく具体的な神頼みだった。
「できれば今日中に」
その時だった。
「ずいぶん具体的な祈りですな」
「うおっ!?」
俺は飛び上がった。
振り返る。
いつの間にか、少し離れた場所に老人が立っていた。
質素な黒い服。
長い白ひげ。
穏やかな顔。
年はかなりいっているようだが、その目には鋭い知性が宿っている。
「だ、誰だ?」
「これは失礼。驚かせるつもりはなかったのですが」
老人は柔らかく笑った。
「私はダヴィド・パレウスと申します。ハイデルベルク大学で、長く神学を教えております」
「大学の先生?」
俺は思わず立ち上がった。
「戦火を避けてハイデルベルクを離れ、今はアンヴァイラーへ身を寄せております。今日は知人を訪ね、この街まで参りましてな」
「へぇ……」
大学の先生。
しかも神学者。
俺はちらりと礼拝堂の奥を見る。
(神様、本当に人を寄越した?)
いやいや。
偶然だ。
偶然に決まっている。
「あなたが、この街の新しい領主殿ですかな?」
「ああ。俺はラーグ。皇帝陛下からフランケンタール伯にされちまった、ただの元建設作業員だ」
「ほう」
パレウスさんが興味深そうに目を細めた。
俺はもう我慢できなかった。
「あんた、ちょっと聞いてくれよ!」
そして今日一日の出来事を、全部ぶちまけた。
カッセルとプファルツでは法律が違う。
分厚い法典がある。
川をいじろうとしたら怒られた。
裁判をまとめようとしても駄目。
話を聞き終えたパレウスさんは、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりとうなずく。
「なるほど。閣下は、この街を早く立て直したいのですな」
「ああ。それだけなんだよ」
俺は教会の外を指さした。
「あんな壊れた家や道を放っておく方が嫌なんだ。でも、昔からある法律や権利を全部勉強してからじゃなきゃ動けないって言われたら、何年かかるか分からないだろ?」
「それならば、すべてを変えようとなさらなければよいのではありませんかな」
「え?」
パレウスさんは静かに微笑んだ。
「法も慣習も、長い年月をかけて人々の暮らしを支えてきたものです。それを新しい領主が一度に変えれば、人々は不安になるでしょう」
「それは分かる」
「ならば、彼らの権利は守ればよろしい」
老人は指を一本立てた。
「これまでの法や都市の特権を、原則として尊重すると宣言する」
「うん」
「そして今、本当に急がねばならないことだけを、別に定めるのです」
「急がなきゃならないこと……」
俺は外を見た。
崩れた城壁。
焼けた建物。
壊れた道路。
「あ」
声が漏れた。
「復興か」
「ええ」
パレウスさんがうなずく。
「戦災から街を立て直すための工事だけ、非常時の措置として優先して進める。そういう方針ならば、昔からの仕組みをすべて壊す必要はありますまい」
「つまり……」
頭の中で、何かがカチリとはまった。
「民事や商売や普通の裁判は、今まで通り」
「そうです」
「だけど、要塞の修理とか道路とか、戦争で壊れたところを直す仕事だけは早く動かす」
「具体的な法の形については、市の役人や法律に詳しい者とよく相談なさるべきでしょうな」
「それだ!」
思わず大声を出した。
礼拝堂に俺の声が響く。
「す、すまん」
慌てて声を落としたが、胸の中では一気に道が開けていた。
全部を俺の法律にする必要なんてない。
難しい裁判は役人に任せればいい。
商売の決まりも昔のままでいい。
俺は、今この街に一番必要な仕事をする。
土木。
復興。
それなら俺にできる。
いや。
それこそ俺の仕事だ。
「パレウスさん!」
俺は老人の両手を握った。
「なあ、俺の相談役になってくれないか?」
「私が、ですかな?」
「ああ。法律の細かいところは役人に任せる。でも、何を守って、何を変えるべきか。俺にはそういう大きな話を整理してくれる人が必要なんだ」
パレウスさんは目を丸くした。
やがて、愉快そうに笑い始める。
「ほっほっほ。教会へ逃げ込んできた新しい伯爵に、いきなり職を頼まれるとは思いませんでしたな」
「頼むよ。給料はちゃんと払うから」
「そこなのですな」
しばらく笑った後、老人は穏やかな表情でうなずいた。
「よろしいでしょう。この傷ついた街が立ち直る助けになるというのであれば、私にできる範囲で知恵をお貸しいたします」
「助かる!」
俺はもう一度、老人の手をぶんぶんと振った。
さっきまで鉛みたいに重かった気分が、嘘のように軽い。
法の細かいところは役人。
政治や統治の難しい話は、パレウスさんにも相談する。
そして俺は、土を動かす。
実に分かりやすい。
教会を出ると、秋の青空が広がっていた。
俺はスコップを肩へ担ぎ、振り返って教会を見上げる。
(……神頼みって、本当に効くんだな)
法律に困って神様へ頼んだら、大学の神学者が出てきた。
神様というのは、思ったより仕事が早いらしい。
「よし。まずは街を直すか!」
俺は久しぶりに軽い足取りで、フランケンタールの街へ歩き出した。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




