第26話 男爵はやめずに、伯爵もやる~ヘッセン・フランケンタール同盟~
【ラーグ視点】
秋の冷たい風が、ヘッセンの平野を吹き抜けていく。色づいた木々の葉が舞い落ち、石畳の街道をカラカラと乾いた音を立てて転がっていた。
俺を乗せた馬車は、重い車輪の音を響かせながらカッセルの街へ入った。
厚い石壁に囲まれたカッセル城。その一角にある重厚な扉を開けると、暖炉で薪がパチパチとはぜる音とともに、心地よい温気が俺を包み込んだ。
「よく戻ったな、ラーグ男爵」
「お久しぶりです、方伯様」
「堅苦しい挨拶はよい。楽にせよ」
執務机の奥、深紅の絨毯が敷かれた部屋で、統一ヘッセン方伯が鷹揚にうなずいた。方伯の手には深紅のワインが注がれたクリスタルグラスが握られており、芳醇なブドウの香りが部屋の中に漂っている。
俺は勧められるまま革張りの椅子へ腰を下ろし、フランケンタールで受け取った皇帝陛下からの書状を机の上へ滑らせた。
「……なるほど。皇帝陛下は、そなたをフランケンタール伯に封じると仰っているのだな」
「ええ。ですが、俺はヘッセン方伯の配下にある男爵です。勝手に受けていいものか悩みまして」
「ふむ。確かに、皇帝陛下から新たな爵位を賜り、広大なプファルツの統治まで任されるとなれば、これまでと同じというわけにはいかぬ。そなたはヘッセンだけの男ではなくなるからな」
方伯はグラスを机へ置くと、鷲のように鋭い目で俺をじっと見つめた。その視線には、一国の君主としての冷徹な計算と、どこか面白がっているような好奇心が混ざっている。
「して、そなたはどうしたいのだ? 皇帝陛下の直臣となり、私の元を離れるか?」
「冗談じゃないですよ。俺はただの建設作業員です。平和に土方をやりたいだけで、面倒な政治なんてごめんです」
「ならば、断るというのか」
「いえ……断るのも角が立つでしょう。それに、自分で壊しておいて、そのまま帰るのも建設作業員として気分が悪いんです」
フランケンタールの城壁には、俺が作った巨大な土の坂がまだ残っている。攻め落とすためとはいえ、あそこまで派手に現場をいじくり回しておいて、後片付けもせず帰るなんて落ち着かない。
俺が素直な胸の内を明かすと、方伯はわずかに口角を上げた。
「俺は、ハイリゲンローデ村の領主を手放すつもりはありません。だから……男爵はやめずに、伯爵もやるっていうのはどうでしょうか」
「ほう。ヘッセン方伯配下の男爵でありながら、同時に皇帝陛下から与えられた伯爵位も持つというのか」
「兼任って、できないんすかね?」
俺の提案を聞いた方伯は、目を丸くした。
そして次の瞬間。
「はっはっはっはっ!」
たまらなくおかしそうに笑い出した。
「な、なんですか?」
「いや、そなたは本当に面白い男だ。だが安心せよ。そのような例なら、いくらでもある」
「そうなんですか?」
方伯は楽しそうにワイングラスを指先で揺らした。
「例えばデンマーク王クリスチャン四世は、デンマーク王でありながら、ホルシュタイン公として帝国諸侯でもある。ブランデンブルク選帝侯はプロイセン公を兼ねておるし、皇帝陛下ご自身も、皇帝であると同時にボヘミア王、ハンガリー王、オーストリア大公でもある」
「……いっぱい持ってますね」
「スペイン王など、持っている称号を最初から最後まで読み上げていたら、日が暮れるぞ」
「そんなに!?」
偉い人というのは、肩書まで大変らしい。
「ゆえに、そなたがハイリゲンローデ男爵領を保持したまま、フランケンタール伯となること自体は、さほど奇妙な話ではない」
「よかったぁ……」
思わず胸をなで下ろす。
「ただし」
方伯の声が低くなった。
嫌な予感がした。
「そなたは今後、皇帝陛下と我がヘッセン、その双方に関わる立場となる。フランケンタールとヘッセンを結ぶ存在になるということだ」
「……やっぱり面倒ごと増えます?」
「当然であろう」
「ですよねぇ……」
がっくりと肩を落とす俺を見て、方伯は再び豪快に笑った。
「よかろう。私が許可する。そなたはこれまで通りハイリゲンローデ男爵であり、同時にフランケンタール伯となれ」
「ありがとうございます」
「皇帝陛下と我がヘッセンを繋ぐ、見事な楔となるであろう。そなた一人が双方の領地を持つならば、それ自体が両者を結ぶ盟約にもなる」
方伯はグラスを掲げた。
「名付けるならば――ヘッセン・フランケンタール同盟、といったところか」
「なんか、また話が大きくなってません?」
「はっはっはっ!」
方伯の笑い声が、高い天井へ響き渡った。
こうして俺は、ヘッセン方伯配下の男爵という地位を保ったまま、皇帝陛下から与えられた伯爵という、重すぎる責任まで背負い込むことになってしまったのである。
◇◆◇
カッセルでの会談を終えた俺は、東へ四キロほど離れた自らの領地、ハイリゲンローデ村へ向かった。
丘を越えると、眼下にこぢんまりとした集落が見えてくる。村の中心には石造りの古い教会が建ち、川沿いでは大きな木製の二つの水車が、ゴトン、ゴトンとのんびりとした音を立てて回っていた。
秋雨をたっぷり吸った黒土の匂い。風に揺れる草と、刈り入れを終えた畑の乾いた香り。
村を囲む星形要塞の黒い土塁は、相変わらず分厚く、頼もしい姿を保っていた。
(やっぱり、ここが一番落ち着くなぁ)
伯爵だの皇帝だのという言葉から一番遠い風景に思えて、俺はようやく肩の力を抜いた。
領主館へ戻ると、執務室へ傭兵隊長のハインリヒを呼び出した。
「隊長。俺はこれから、改めてフランケンタールに戻らなきゃならなくなった」
「また随分と遠くへ行かれるのですね。戦は終わったと聞いておりましたが」
「戦後処理と要塞の修復だよ。向こうの統治まで任されちまったしな」
歴戦の軍人であるハインリヒ隊長は、少し驚いたように目を見開いた。
「では、皇帝陛下からの伯爵位を?」
「ああ。方伯様とも話して、男爵はそのまま。伯爵もやることになった」
「……そのようなことがあるのですね」
「俺も今日初めて知ったよ」
ハインリヒはしばらく呆気に取られていたが、やがて表情を引き締めた。
「そういうわけで、俺がいない間のハイリゲンローデの代官は、隊長に任せたい。村の守りと、傭兵たちの訓練を引き続き頼む」
「承知いたしました、男爵……いや、伯爵閣下とお呼びすべきでしょうか。このハインリヒ、命に代えましても村をお守りいたします」
「あんまり堅苦しくしないでくれよ。俺は土方のラーグで十分だ」
俺が苦笑すると、背後から陽気な声が飛んできた。
「なんだい、また大きな仕事かい? 当然、アタイらも連れて行くんだろうね?」
「ラーグ様を一人にしておくわけにはいきませんわ」
振り返ると、白いブラウス姿のレイラと、双剣を帯びたミラが立っていた。
二人とも、すっかり俺の組の一員として定着している。最初に出会った頃はドラゴンを相手に剣を振り回していた冒険者だったが、今では戦争から領地経営、戦後処理まで付き合ってくれる頼もしい相棒だ。
「ああ。お前たちには護衛を頼む。また泥まみれの土方仕事になるかもしれないけどな」
「望むところさ」
「わたくしは構いませんわ。ラーグ様の場合、どこへ行っても最後は土をいじっていますもの」
「それは言うなよ……」
レイラが豪快に笑い、ミラが優雅に口元を緩めた。
こうして俺たちは、平和なハイリゲンローデ村の留守をハインリヒ隊長へ託し、再び南西の地へと馬車を進めることになった。
◇◆◇
数日後。
俺たちは再び、下プファルツのフランケンタールへ到着した。
秋の風が、戦いの終わった城壁を吹き抜けていく。砲撃で欠けた石壁。踏み荒らされた地面。ところどころに残る焼け焦げた木材。
そして何より目立つのが――俺が作った巨大な土の坂だった。
夕日に照らされ、長い影を落としている。城壁とほぼ同じ高さまで積み上げられた大量の土は、自分で作ったものとはいえ、改めて見ると異様だった。
「……よくこんなの作ったな、俺」
普通なら、何百人、何千人という人手を使って撤去することになる大工事である。
けれど、俺にとっては違う。
「さて……片付けるか」
俺は両手へ意識を集中させ、巨大な坂へ向けた。
「『残土』」
ズゴゴゴゴゴゴッ――!
大地を揺るがすような音とともに、土の坂が端から崩れていく。
黒い土。
砂利。
大小さまざまな石。
それらが次々と見えない空間へ吸い込まれ、城壁の前から消えていった。
「相変わらず、とんでもない光景だねぇ」
「これを一人で片付けられるのですから、便利なスキルですわね」
「作ったのも俺だけどな」
レイラとミラの声を背中で聞きながら、俺は黙々と作業を続けた。
巨大な坂を片付ける。崩れた場所には土を入れる。使えそうな石は分類して回収し、必要な場所へ運ぶ。
作業現場を中途半端な状態で放り出すのは、建設作業員として昔から好きではなかった。
泥と汗にまみれ、スコップを握っていると、自分が伯爵になったことなど忘れてしまいそうだった。
(やっぱり、こっちの方が性に合ってるよなぁ)
爵位よりスコップ。
宮廷より現場。
俺には、そのくらいがちょうどいい。
◇◆◇
修復作業がようやく一段落した頃には、空が茜色に染まり始めていた。
俺は陣幕の前へ腰を下ろし、冷たいエールを喉へ流し込んだ。汗をかいた体へ、苦みのある冷たい液体が染み渡る。
「ぷはぁ……うまい」
今日もよく働いた。
このまま飯を食って寝たい。
そう思った、その時だった。
「ラーグ・フォン・ハイリゲンローデ伯爵閣下。ウィーンより、使者が参りました」
「……え?」
嫌な予感しかしない。
俺がジョッキを持ったまま顔を引きつらせていると、使者は恭しく一通の書状を差し出した。
黒い双頭の鷲が刻まれた封蝋。
見覚えがある。
というか、最近見すぎている。
「またこれかよ……」
恐る恐る封を切り、中身を開く。
皇帝陛下からの文章は、驚くほど短かった。
『落ち着いたら一度ウィーンに来い』
「…………」
俺は書状を持ったまま、完全に固まった。
ウィーン。
神聖ローマ帝国の中心。
皇帝陛下の御膝元。
そんな場所へ、元土方のおっさんが呼び出されている。
手の中の羊皮紙が、さっきまで持っていたスコップより何倍も重く感じられた。冷たい汗が、ゆっくりと背中を伝っていく。
「……絶対めんどくさいやつだ」
誰に聞かせるでもなく、悲鳴のような声が口から漏れた。
男爵になった。
伯爵にもなった。
今度は皇帝陛下から、ウィーンへ来いと言われた。
俺の平和な日常は、またしても少し遠くへ逃げていってしまったらしい。
「だから俺、平和に土方をやりたいだけなんだけどなぁ……」
夕暮れの空へ吐き出した深いため息は、冷たい秋の風にさらわれ、そのまま高い空へ消えていった。
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