第22話 近代化の波
【ラーグ視点】
長く厳しかった冬が去り、真紅のドラゴンが嵐のように現れては去っていった春も過ぎた。
俺の領地であるハイリゲンローデ村は、今やむせ返るような命の息吹に包まれている。
初夏の風が、広大な平野を青々とした波のように揺らしていく。分厚く締め固められた星形要塞の黒い土塁にも、柔らかな草がびっしりと根を張り、眩しい陽光を弾いていた。
水車小屋からは、ゴトン、ゴトンと穀物を挽く重い音が絶え間なく響いている。
鼻をくすぐるのは、雪解け水をたっぷり吸った黒土の匂いと、夏草の青臭い香りだった。
俺は領主館のテラスに座り、ひんやりとしたエールで喉を潤した。
「いやぁ、今年の夏は期待できそうですぞ、男爵様。麦の育ちが、今までにないほど良いのです」
「それは良かった。畑の石を退けた甲斐があったな」
俺の向かいでは、村の名主であるハンスさんが、顔の皺をくしゃくしゃにして笑っていた。
かつて石だらけだった痩せた畑は、俺が『残土』のスキルで邪魔な石をすべて収納し、別の場所から肥えた土を入れたことで、見違えるような農地へ生まれ変わった。
さらに回収した大小の石は、建築資材として村人たちへ払い下げている。今では村のあちこちに、頑丈な石造りの家畜小屋や倉庫が建っていた。
平和だ。
戦火の匂いもない。ただの、のどかな農村の風景。
俺が満足げにエールを飲んでいると、ハンスさんがふと思い出したように呟いた。
「そういや……最近、ゴブリンを見ませんな」
「ゴブリン?」
ハンスさんは不思議そうに顎を撫でる。
「ええ。昔は夜中になると、家畜を狙って村の周りをうろついていたものですが」
「最後に見たの、いつだっけ?」
「はて……去年の秋でしょうか。冬を越してから、とんと姿を見かけませんな。まあ、厄介者がいなくなるのは良いことですが」
「ふうん……」
俺は空になったジョッキをテーブルへ置いた。
ゴブリン。
前世で言えば、ファンタジー世界の代表みたいな緑色の小鬼だ。
知能は低いが群れを作り、旅人を襲ったり、農村から家畜や作物を盗んだりする厄介な魔物らしい。
言われてみれば、俺がこの村の領主になってから、ゴブリン退治の報告を受けた記憶がほとんどない。
この間のメイアみたいなドラゴンは別として、ゴブリンすら出ないというのは少し不思議だった。
◇◆◇
その日の午後。
俺は護衛のレイラとミラを連れ、要塞の内側にある練兵場へ足を運んだ。
ダァァァンッ!
乾いた破裂音が、初夏の青空へ吸い込まれていく。
鼻を突く、焦げた火薬の鋭い臭い。
練兵場では、ハインリヒ隊長が率いる傭兵たちが、横一列に並んでマスケット銃の訓練を続けていた。
「火薬を込めろ!」
「構え!」
「撃て!」
号令と同時に、銃口が一斉に火を噴く。
俺が導入した教本に沿った訓練を繰り返した結果、彼らの動きは以前とは比べものにならないほど揃っていた。
勝手に撃たない。
勝手に動かない。
命令に従い、集団で動く。
俺はその様子を眺めながら、訓練の合間にハインリヒ隊長へ尋ねた。
「なぁ、隊長。昔はゴブリンが出たら、どうしてたんだ?」
「ゴブリンですか?」
硝煙の臭いをまとったハインリヒ隊長が、少し考える。
「村なら冒険者ギルドへ依頼を出すことが多かったですな。駆け出しの冒険者には、ちょうどいい仕事です」
「アタイらも若い頃は、よくゴブリン退治で小銭を稼いだもんさ。夜中の森を歩き回って、泥だらけになりながらねぇ」
レイラが懐かしそうに笑う。
なるほど。
いかにも剣と魔法の世界らしい。
「じゃあ、今は?」
「今ですか?」
ハインリヒ隊長は、何でもないことのように肩をすくめた。
「銃兵を二十人も出せば十分でしょう。一斉射撃を浴びせ、残ったものを槍や剣で仕留めれば終わりです。冒険者を集めるより早く、確実ですな」
「……時代だなぁ」
俺は思わず空を見上げた。
昔なら若い冒険者たちが剣を手に、命懸けで森へ分け入っていた。
それが今では、訓練された銃兵を二十人ほど派遣すれば終わる。
ゴブリンという魔物は、脅威から害獣駆除の対象へ変わりつつあるらしい。
だが、考えてみれば理由は銃だけではなかった。
俺は村の周囲へ目を向ける。
ゴブリンは昔から、森に隠れ、家畜を盗み、街道を通る旅人を襲って生きてきた。
けれど、人間側の環境は、この一年で大きく変わっている。
まず、開墾が進んだ。
俺が畑の石を片っ端から回収したことで農地が広がり、村の近くにあった深い茂みや森も少なくなった。
次に街道だ。
カッセルへ続く道を整備したことで見通しが良くなり、旅人を待ち伏せできる場所が減った。
家畜小屋も変わった。
俺が取り出した石を使い、木造だった小屋が次々と頑丈な石造りへ建て替えられている。
そして村そのものは、巨大な星形要塞に囲まれていた。
夜になれば、訓練された銃兵たちが松明を掲げ、決められた順路を巡回する。
さらに、とどめがある。
「…………」
俺は遠くの丘を見た。
ゴブリンが好んで住みつきそうな洞窟や深い穴。
そういう場所のいくつかは、俺が『残土』の不法投棄……もとい、安全な処理場として、大量の土砂で埋めてしまっていた。
住む場所がない。
待ち伏せする場所もない。
食料も盗めない。
見つかれば、銃を持った兵士がやってくる。
(そりゃ、いなくなるわな……)
誰かが、
「ゴブリンを絶滅させよう!」
と命令したわけではない。
俺だって、そんなことを考えた覚えはない。
ただ農地を増やした。
道を作った。
家を丈夫にした。
村を守った。
兵士を訓練した。
その結果、ゴブリンが生きていける場所がなくなっただけなのだ。
「この間来たメイアは、『最近の人間は銃を持ってて危ない』って言ってたよな」
「ええ。ドラゴンは賢い生き物ですから、時代が変わったことを理解しているのでしょう」
ミラが静かに答えた。
強大なドラゴンですら、人間との付き合い方を変えようとしている。
だが、ゴブリンにはそれができなかった。
今までと同じように生きようとして、いつの間にか人間の生活圏から押し出されてしまった。
「……近代化って、こういうことでもあるのか」
俺の呟きは、硝煙の残る風に消えていった。
◇◆◇
夕暮れ時。
西の空が燃えるような茜色に染まり、その向こうから深い紫色の夜が静かに迫っていた。
俺は星形要塞の分厚い土塁の上に立ち、少し冷たくなった初夏の風を浴びながら、広い平野を見下ろしていた。
カラスが鳴きながら、遠くの森へ帰っていく。
村では夕餉の準備が始まり、家々の煙突から白い煙が立ち上っていた。薪の燃える温かな匂いが、風に乗って漂ってくる。
「昔なら、この辺の森にもゴブリンがいっぱいいたんだよな」
「いましたわね。日が暮れれば、村の外は魔物の領域でしたから」
隣に立つミラが静かに頷いた。
反対側では、レイラが風に金髪をなびかせながら、退屈そうにあくびをしている。
「……別に、寂しくはないけどさ」
「当たり前だよ。家畜を食って、人を襲う連中だ。いなくなって清々したじゃないか」
「そうなんだけどさ……なんか、時代が変わったって感じがするな」
俺は足元の土塁へ手を触れた。
ひんやりとした、硬い土の感触。
レイラの言う通りだ。
ゴブリンがいなくなったことで、村人は安心して眠れる。
街道も安全になった。
俺がやってきたことは、間違っていない。
けれど。
剣と魔法と魔物が当たり前だった世界も、人間が知恵を絞り、技術を発展させていけば、少しずつ姿を変えていくのだろう。
それは前世の地球で、人間の町や畑が広がるにつれて、野生動物が人里から姿を消していった歴史と、どこか似ている気がした。
「時代の流れ、か……」
少しだけ、胸の奥を寂しい風が吹き抜ける。
俺はもう一度、平和になったハイリゲンローデ村を見渡した。
そして小さく息を吐き、領主館へ向かって歩き始めた。
――この頃を境に、ハイリゲンローデ周辺の記録から、ゴブリンという名は急速に姿を消していく。
ファンタジーの象徴だった魔物すら、生活圏から押し出していく近代化の波。
それは紛れもなく、俺自身がこの手で築き上げた『残土』の要塞都市がもたらした、時代の変化だった。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




