第21話 ハイリゲンローデの話せるドラゴンさん
【ラーグ視点】
長く厳しかった冬が終わり、俺の領地であるハイリゲンローデ村にも、ようやく本格的な春が訪れていた。
村を囲むように築かれた星形要塞。その黒く分厚い土塁には柔らかな緑の草が一斉に芽吹き、うららかな陽光を受けて絨毯のように輝いている。
頬を撫でる風は、もう肌を刺すような冷たさを失っていた。代わりに運んでくるのは、名も知らぬ野花の甘い香りと、雪解け水をたっぷり吸った土の温かな匂い。
小川のせせらぎと、のんびり回る二つの水車の音が、春の訪れを祝うように響いていた。
俺は領主館のテラスで、温かい茶をすすりながら大きく背伸びをした。
護衛のレイラとミラも、今日ばかりは物騒な武器を傍らに置き、春の陽気にまどろんでいる。
遠い場所では戦争の足音が聞こえつつある。
それでも、この村の時間だけは、どこまでもゆっくり流れているように思えた。
そんな平穏が打ち破られたのは、突然のことだった。
ぽかぽかと暖かかった陽光が、ふっと遮られる。
「ん?」
俺が空を見上げる。
青く澄み渡った春空を、巨大な影が覆っていた。
バサァッ、バサァッ。
空気を叩く、重々しい羽ばたき。
次の瞬間、猛烈な風が吹き下ろし、テラスの布が激しくはためいた。
(まさか……!)
背筋を、氷のような冷や汗が滑り落ちる。
かつてカッセルの街で直面した、あの圧倒的な暴力の記憶が蘇った。
燃えるような真紅の鱗。
家一軒を優に超える巨大な胴体。
空を覆い隠すほどの翼。
紛れもない。
ドラゴンだった。
「チッ……! こんな田舎村にまで出やがるのかい!」
「ラーグ様、お下がりください!」
レイラが弾かれたように立ち上がり、愛剣を抜き放つ。ミラも黒い革鎧をきしませて双剣を構え、俺を庇うように前へ出た。
二人の体から、肌がひりつくほどの殺気が立ち昇る。
俺も、いつでも『残土』をぶちまけられるよう両手へ意識を集中させた。
ズズゥンッ!
巨大な体が、村の外れ――星形要塞のすぐ外側へ降り立った。
大地が揺れ、乾いた土埃が舞い上がる。
獣の荒い息遣い。
風に混じって漂ってくる、わずかな硫黄の臭い。
「…………」
真紅のドラゴンが、長い首をゆっくりとこちらへ向けた。
黄金色の巨大な瞳が、俺たちをじっと見つめている。
そして、太い腕よりも巨大な牙が並ぶ恐ろしい口が、ゆっくりと開かれた。
『あのぅ、すみません。ちょっと家畜を分けてもらえませんか?』
「…………は?」
脳内へ直接響いたのは、鈴を転がすような若い女の声だった。
しかも、やたら申し訳なさそうである。
「やたら低姿勢だな、オイ!」
「えっ? しゃ、喋った……?」
「どういうことですの……?」
俺は思わず構えていた手を下ろした。
今にも飛び掛かろうとしていたレイラとミラも、完全に虚を突かれて固まっている。
真紅のドラゴンは巨大な体を少し縮こまらせ、もじもじと前脚を動かした。
『ハイリゲンローデの近くには、冬眠にちょうどいい洞窟がありまして。冬の間はずっと眠っていたんですが、春になって起きたら、お腹がペコペコで……』
「いや、そんなに図体デカいといっぱい食べるだろ? 村の家畜を全部食われちゃ困るんだよ」
『ああ……そうですよね。図々しかったですよね。ごめんなさい』
巨大な爬虫類が、あからさまにシュンと首を落とした。
見た目は凶悪な怪物なのに、なぜか近所の腹ペコな女の子に見えてくるから不思議だ。
「……はぁ。分かったよ。ちょっと待ってろ。カッセルで買ってきてやるから」
俺はため息をつき、ミラを振り返った。
「ミラ、悪いけど馬を飛ばして、カッセルで牛を何頭か買ってきてくれないか。金なら出すから」
「わ、私がパシリですの!? 相手はドラゴンですわよ!?」
「でも襲ってくる気配はないし、ここで腹を空かせて暴れられても困るだろ」
「……分かりましたわ。すぐに行ってまいります」
ミラは不満げに口を尖らせながらも、急いで馬の用意へ向かった。
◇◆◇
ミラが戻るまでの間、俺は要塞の土塁の上からドラゴンさんと向かい合い、話を聞くことになった。
すぐ横では、レイラが剣を抜いたまま、微動だにせずドラゴンを睨みつけている。
『私の名前はメイアといいます。よろしくです』
メイアと名乗った真紅のドラゴンは、行儀よく伏せの姿勢を取り、大きな瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「あっ、どうも。残土のラーグっていいます」
『残土の……ああっ! あなたが!』
メイアの黄金色の目が大きく見開かれた。
『この前は、仲間がカッセルを襲ってすみませんでした』
長い首が、ペコリと下がる。
「ああ、あの時の……。いや、気にするなよ。結果的に俺も助かったし」
俺は頭を掻いた。
どうやら、俺が残土で生き埋めにしたあのドラゴンの知り合いらしい。
「それより、あんな危ないドラゴンって多いのか?」
『たまにいますねぇ』
メイアは困ったように、鼻先からふうっと白い煙を吐いた。
『最近は人間も銃で武装していますから、不用意に近づくと危ないって、私たちの仲間内でも話題なんですけどね』
「へえ。ドラゴンも情報交換するんだな」
『ええ。でも、やっぱり「ドラゴン最強!」って信じてる頭の固いヤツが、たまにいるんですよ。時代は変わっているのに、困ったものです』
呆れたように話すメイアの口調は、まるで近所で世間話をしているおばちゃんだった。
まさかドラゴンの世界にも、時代についていけないヤツがいるとは思わなかった。
人間が銃を使い始めたことで、ドラゴン側にも危機感が生まれているらしい。
「そっか。まあ、近所なら仲良くしよう」
『はい。私も気を付けます。あんな分厚い土塁に囲まれた村、見たことありませんもの』
「お互い平和にいこうぜ」
『それが一番ですね』
なぜか意気投合してしまった。
種族は違えど、平和を愛する気持ちは同じらしい。
そうこうしていると、遠くから馬の蹄が地面を蹴る音が聞こえてきた。
「ラーグ様! 連れてまいりましたわ!」
「おお、ご苦労さん」
ミラが、何頭もの丸々と太った牛を引いて戻ってきた。
牛たちは、目の前にそびえ立つ真紅のドラゴンを見るなり、恐怖で脚を震わせて動かなくなった。
『わぁ、美味しそう! いただきます!』
メイアの黄金色の瞳が、嬉しそうに細められる。
長い首を伸ばし、大きな口を開いた。
パクリ。
ゴクンッ。
「…………」
一瞬だった。
咀嚼する音すらない。
見事なまでの丸のみだった。
鼻を刺すような生々しい血の臭いが漂い、俺は改めて思い知らされる。
いくら話が通じても、こいつはやっぱりドラゴンなのだ。
『ふう、お腹いっぱいです。ごちそうさまでした!』
食事を終えたメイアは、至極幸せそうだった。
満足げに舌なめずりすると、立ち上がって巨大な翼を広げる。
バサァッ!
強烈な風圧が巻き起こり、周囲の草が大きく波打った。
『本当にありがとうございました。ラーグさん、また遊びに来ますね!』
「お、おう。またな」
丁寧に礼を言い残し、真紅のドラゴンは春の青空へ力強く羽ばたいていった。
見る見るうちに小さくなり、やがて赤い姿は雲の向こうへ消えていく。
「…………」
「…………」
俺とミラは、ぽかんと口を開けたまま空を見上げていた。
嵐のように現れ、牛を食べ、嵐のように去っていった。
「なあ、レイラ。なんか凄い体験だったな」
俺が振り返る。
「…………」
レイラは土塁の上で、愛剣を両手で構えたまま彫像のように固まっていた。
額にはびっしりと冷や汗が浮かび、目は血走っている。
考えてみれば、ドラゴンが現れてから飛び去るまで、こいつだけは一度も剣を下ろしていない。
俺たちが普通に世間話をしている間も、ずっと一人で殺気を放ち続けていたのだ。
「おーい、レイラさん?」
「……終わったのかい?」
「おう。帰ったぞ」
ガクンッ。
レイラは膝から崩れ落ち、剣を杖代わりにして荒い息を吐いた。
「……気疲れしたよ、まったく」
この日も、ハイリゲンローデ村は相変わらず平和だった。
ただし、レイラの寿命だけは少し縮んだようだった。
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