第20話 皇帝の使者
【ヘッセン=カッセル方伯視点】
「……あの、俺、もう帰っていいですか?」
「駄目だ」
切実な思いを顔に貼り付けた新米男爵の問いに、私は満面の笑みで即答した。
カッセル城の小食堂。高い窓から差し込む春の柔らかな陽光が、純白のテーブルクロスの上に落ちている。昼食の余韻が残る室内には、香ばしく焼き上げられたローストポークの脂と、芳醇な赤ワインの香りがまだ色濃く漂っていた。
私は逃げ腰になっているラーグ男爵をその場へ引き留め、扉の向こうに待たせている者へ声をかけた。
「通せ」
私が命じると、初老の侍従が重い木製の扉を静かに開いた。
長旅の埃を払った黒衣の使者が、恭しく入室してくる。彼の身を包む漆黒の外套は、春の暖かな日差しの中でも、どこか冷たい威圧感を漂わせていた。
微かに混じるのは、乾いた土と馬の汗の臭い。
遠くウィーンから、早馬を乗り継いできた証であろう。
「お食事中にもかかわらず、拝謁の栄を賜り感謝いたします。統一ヘッセン方伯殿」
「構わん。長旅ご苦労であった。して、ウィーンからの急使とは、いかなる用件か」
私はグラスに残っていたルビー色のワインを一口含み、鷹揚に尋ねた。
喉の奥に広がる渋みと甘みを感じながらも、使者のわずかな動きも見逃さぬよう視線を向ける。
使者は背筋を伸ばし、懐から見事な封蝋が施された書状を取り出した。
黒い双頭の鷲の紋章。
間違いなく、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント二世陛下からの正式な親書である。
「現在、帝国軍および同盟軍は、反逆者たるプファルツ領主の討伐を進めております」
「存じておる」
プファルツは、我が国の南西に位置する。
距離が近いこともあり、その情勢については常に密偵から報告を受けていた。
つい先ほども、目の前で不安そうな顔をしている男爵へ、パンを使って説明してやったばかりだ。
「先鋒を務めるのは、スペインから派遣されたアンブロジオ・スピノラ将軍の軍勢でございます。彼らは現在、下プファルツへ侵攻中であり、戦況は皇帝側に有利に進んでおります」
その言葉を聞き、私は内心で舌を巻いた。
スピノラ将軍といえば、ヨーロッパ全土に名を知られる名将である。長く続くオランダとの戦争でも、数々の武勲を立ててきた男だ。
鉄の規律で統制されたスペイン軍が、プファルツへ向けて進んでいる。
敵からすれば、死神の行軍にも等しいだろう。
「それで? 我がヘッセンに何を求めておられる」
使者は書状を開き、厳かに読み上げ始めた。
「一つ。必要となった際、スペイン軍および帝国軍がヘッセン領内を通行するための、軍事通行許可をいただきたい」
「ふむ」
「二つ。軍への食料、および物資の支援をお願いしたい」
(やはりな)
予想していた要求だった。
プファルツはここから近い。
大軍を動かし、長期間にわたって戦線を維持するためには、近隣の領邦からの支援が欠かせない。
皇帝側につくと決めた以上、ここで渋る理由もない。領内の通行を許し、倉庫に眠る麦や干し肉を提供する程度で、帝国内における統一ヘッセンの立場を確かなものにできるのであれば安いものだ。
「承知した」
私が即答すると、使者の強張っていた肩から、わずかに力が抜けた。
「皇帝陛下への忠義、痛み入ります。軍事通行許可と食料支援につきましては、後ほど詳細を詰めさせていただきます」
「よいだろう」
これで話は終わりかと思った、その時だった。
使者が、ちらりと私の隣に座る男を見た。
「そして……もう一つ、皇帝陛下から直々のご要望がございます」
「何だ?」
「そこに同席しておられるのは、ラーグ・フォン・ハイリゲンローデ男爵殿とお見受けいたしますが」
ビクッ、とラーグ男爵の肩が跳ねた。
私は彼へ視線を向けた。
ただの平民の建設作業員でありながら、自らのスキルを使って分厚い土塁を築き、我が軍の危機を幾度も救った男である。
「いかにも。彼がラーグ男爵だが」
使者は深く一礼した。
「皇帝陛下は、必要となった際――ラーグ男爵を戦地へ派遣するよう求めておられます」
「…………」
静寂が、小食堂へ降りた。
春風の音さえ止んだように感じる中、私は隣を見た。
ラーグ男爵は銀のナイフを持ったまま、完全に固まっている。
「……は?」
間の抜けた声が、彼の口から漏れた。
「男爵の派遣、だと?」
私が念のため聞き返すと、使者は真剣な顔でうなずいた。
「はい。皇帝陛下は、先日男爵が執筆された『ラーグ式要塞理論』をいたくお気に召されております。さらに、宮廷へ提出された『スキル残土』についての報告書に記された、その特異な能力を高く評価しておいでです」
なるほど。
腑に落ちた。
かつて彼に書かせた要塞構築についての本が、ウィーンの宮廷でも評判になっているという話は聞いている。
さらに、彼の能力についてまとめられた報告まで皇帝陛下の目に留まったらしい。
戦場で瞬く間に分厚い土塁を築き、要塞を造り上げる力。
城を守るにも、城を攻めるにも、これほど便利な男はいない。
スピノラ将軍の軍勢が堅牢な城塞都市を攻めることになれば、ラーグ男爵の築城や攻城に関する知識が必要になるかもしれない。
為政者として、手元に置きたくなるのは当然であろう。
「俺……?」
ラーグ男爵が震える声で呟いた。
「俺が、プファルツへ……?」
私は口元が綻ぶのを抑えきれなかった。
彼はつい先ほどまで、
「今年は戦争のない平和な春になればいい」
などと、ぼやいていたのである。
平和な春を満喫し、愛する領地の開発に励もうとしていた矢先。
神聖ローマ帝国皇帝という、帝国で最も権威ある人物から、直々に名指しされたのだ。
「どうする、男爵?」
私はあえて彼へ尋ねた。
「皇帝陛下から直々のご指名だ。光栄なことではないか」
「い、いやいやいやいや!」
ラーグ男爵は激しく首を横に振った。
その顔は、見事なまでに真っ青だった。
「俺、ただの土方ですよ!? 戦争の指揮なんてできるわけないじゃないですか! それに領地の開墾だってまだ途中ですし、星形要塞も大砲を並べたばかりで――」
「謙遜するな。そなたの能力は、すでに帝国中へ知られつつあるのだ」
「知られなくていいですよ!」
思わず笑いそうになる。
「それに、使者殿も『必要となった際』と言っている。今すぐ最前線へ放り込まれるわけではあるまい」
「絶対、最前線に連れて行かれるやつの前振りじゃないですか、それ!」
何を言っているのか、よく分からぬ。
だが、本人にとっては重大な問題らしい。
「ああ……終わった。俺の平和な春が……」
ラーグ男爵は頭を抱え、そのままテーブルへ突っ伏した。
あまりにも見事な絶望ぶりだった。
「くくっ……はっはっはっはっ!」
私は腹の底から笑い声を上げてしまった。
平民から貴族へ成り上がり、大軍の進軍を止め、ついには皇帝陛下から名指しで必要とされる。
この男の周囲には、どうやら退屈という言葉が存在しないらしい。
「よろしい。皇帝陛下の要求、すべて承諾しよう」
私は笑いを収め、使者へ向き直った。
「通行許可も、食料も、そして必要とあらばラーグ男爵も。我が統一ヘッセンの名において協力すると、陛下へお伝えしてくれ」
「はっ! 方伯殿の忠誠、必ずや皇帝陛下へお伝えいたします!」
使者が深々と頭を下げる。
その横で。
「……方伯様の、鬼……悪魔……」
完全に魂が抜けたラーグ男爵が、うわ言のように呟いていた。
私は手元のワイングラスを掲げ、真っ青になっている男爵へ上機嫌に微笑んだ。
「共に帝国の平和のため、励もうではないか、ラーグ男爵。そなたのさらなる活躍を、私も大いに期待しているぞ」
こうして我が統一ヘッセンは、正式に皇帝側としてプファルツ戦争へ足を踏み入れることとなった。
そして、一人の不運な新米男爵も共に。
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