第2話 レイラの誘惑と残土の組
第2話 レイラの誘惑と残土の組
【ラーグ視点】
ドラゴンの巨大な死骸から漂う、鉄と泥と腐肉が混ざり合ったような生臭さは、夜風に吹かれてもなおカッセルの街に居座っていた。
だが、人々の熱狂は、そんな悪臭などものともしない。ほんの数時間前まで死の恐怖に震えていた街は一転し、生き延びた歓喜に包まれていた。
あちこちの酒場から割れんばかりの笑い声がこぼれ、樽酒が次々と開けられる。グラスを打ち鳴らす澄んだ音に、串焼きや煮込み料理の香ばしい匂い。夜の冷たい空気まで、祭りの熱に浮かされているようだった。
俺も当然のように、ドラゴン討伐の英雄の一人として扱われ、そのまま打ち上げの宴へ担ぎ込まれてしまった。
場所は街の中心にある、赤レンガ造りの高級レストランだ。
床には足が沈みそうなほど柔らかい絨毯。個室のテーブルには純白のクロスが掛けられ、磨き上げられた銀の食器がランプの明かりをキラキラと返している。
普段なら、泥まみれの日雇い作業員である俺が、入口をくぐることさえためらうような店だ。
そして何より恐ろしいのが、俺の横に積まれた革袋だった。
中身は金貨。
しかも一袋ではない。
「…………」
国から支払われたドラゴン討伐の報奨金は、なんと金貨一万枚だという。
ドラゴンの鱗は最高級の鎧に、牙や爪は名剣の素材に、血肉は錬金術で使う貴重な薬の材料になるらしい。つまり、ドラゴンというのは倒すだけでも大変だが、倒した後は丸ごと宝の山になるわけだ。
その最大の功労者として、俺とレイラに大金が渡された。
仮に半分ずつなら、俺の取り分は五千枚。
頭の中で計算してみる。
今の俺が一カ月生活するのに必要な金から考えれば、ざっと五千カ月分。
一年は十二カ月だから……。
(四百年以上かよ)
遊んで暮らしても、寿命より先に金の方が余る。
(いらねぇ。こんな途方もない金、俺みたいな一介の土方のおっさんが扱えるわけねぇだろ……)
革袋の口からのぞく黄金色が、やけに目へ刺さる。
俺は現実逃避するように視線をそらし、目の前の料理へ意識を向けた。
「アタイの名前はレイラ。土魔法使いのダンナ、アンタは?」
向かいの席から、鈴を転がすような、それでいてどこか野性味のある声が飛んできた。
見れば、さっきまで銀色の鎧をドラゴンの血で真っ赤に染めていた女剣士が、ゆったりとした白い麻のブラウス姿で座っている。
長い金髪はランプの光を浴びて蜂蜜のように輝き、深い青の瞳が興味深そうに俺を見つめていた。ドラゴンへ斬りかかった時の張り詰めた雰囲気は消え、今はずいぶん気安い。
「俺はラーグ。残土のラーグだ」
手元のグラスを軽く掲げて答える。
念のため説明しておくと、残土とは建物を建てたり、地面を掘ったりした時に出る余分な土砂のことだ。
神秘的な魔法の物質でもなければ、貴重な鉱石でもない。
ただの余った土である。
「残土ねぇ」
レイラはそう言いながら、分厚いステーキを豪快に切った。
俺も一口食べる。
表面は香ばしく焼かれているのに、中は驚くほど柔らかい。噛んだ瞬間、熱い肉汁が舌へ広がり、脂の甘みが赤ワインの渋みと混ざり合った。
(うまっ)
普段食っている硬い干し肉とは、同じ肉とは思えない。
まあ今日くらい、こんな贅沢をしてもバチは当たらないだろう。
危うくドラゴンに食われるところだったんだからな。
「しかし、アンタの土魔法、すごいねぇ」
レイラはステーキを頬張ったまま、高級そうなワインをゴクゴクと飲んだ。
整った美人なのに、食い方は驚くほど豪快だ。
だが、妙に気取られるより、俺としてはこっちの方が付き合いやすい。
「だから俺のは土魔法じゃないんだって。『残土』って名前のスキルさ」
「違いが分からないねぇ」
「簡単に言えば、工事で出た残土しか収納できない。そこら辺の大地を好き勝手に動かせるわけじゃないんだ」
「なるほどねぇ。じゃあ、残土がアンタの弾みたいなもんかい」
「まあ、そんな感じだな。工事をすればするほど、中に残土が貯まっていく」
レイラは肉を飲み込むと、フォークの先を俺へ向けた。
「普通、冒険者ってのは自分の力を増やそうとするものさ。それこそ大枚はたいて、カネを払ってでもね」
俺はナイフを持つ手を止めた。
(カネを払ってでも、か……)
今日、ドラゴンを生き埋めにできたのは、これまで大量の残土を貯め込んでいたからだ。
だとすれば、手持ちは多いほどいい。
なら、誰かから残土を買い取ってでも増やしておくべきか?
(……いや、待てよ)
残土は、そもそも金を払って買うような物じゃない。
工事で大量に出て、運び出すにも場所を確保するにも手間がかかる厄介者だ。
つまり。
俺が買う必要なんてない。
むしろ――。
(向こうから金をもらって、俺が引き取ればいいんじゃないか?)
顔を上げると、レイラがニヤニヤしながら俺を見ていた。
「それなら、自分の組でも作ればいいんじゃないか? そうすれば残土なんて集め放題だろう?」
「組……か」
この世界では、同じ仕事をする者たちが集まって『組』を作るのが普通だ。
俺が今働いているのも、ダル親方がまとめている建設の組である。
自分で仕事を受ける。
工事をする。
残土を集める。
しかも残土の処分代まで受け取れる。
そして、その残土は俺にとってドラゴンすら押さえ込める武器になる。
「そうだな……自分で組を作るのは、悪くないかもしれない」
俺が真面目にうなずくと、レイラはなぜか艶っぽく笑った。
テーブル越しに、少しだけ身を乗り出してくる。
白いブラウスの胸元がわずかに開き、柔らかな肌がランプの光を受けた。石鹸と、かすかな汗の匂いがふわりと鼻をくすぐる。
「どうだい、このあとアタイの部屋で寝ていくかい? 見たところ、アンタもかなりご無沙汰なんじゃないかい?」
「ぶっ!」
危うくワインを吹き出すところだった。
青い瞳が、獲物を狙う雌豹みたいに細められている。
(直球すぎるだろ!?)
三十七歳独身。
おまけに、こんな美女から誘われた経験など当然ない。
喉が急にカラカラになる。
俺は残っていたワインを飲み干し、どうにか苦笑いを浮かべた。
「わりぃ。こんな美女の誘いを断るのは男として心苦しいんだが……もう少し、お互い仲良くなってから考えさせてくれ」
「ふふっ。冒険者なんて、いつ死ぬか分からないからねぇ。アタイはこういう時、迷わないのさ」
「ずいぶん豪快だな」
「まあ、アンタがそういう堅物なら無理は言わないよ」
レイラはあっさり引き下がった。
助かったような。
惜しいような。
(いやいや、何考えてんだ俺)
「その代わりと言っちゃなんだが、明日、俺は組を作りにいこうと思う。あんたも付き合わないか?」
「へぇ、もうやる気になったのかい?」
「ああ。思いついたら、試してみたくなった」
「面白そうだ。アタイも一枚かませてもらうよ」
レイラが満足そうに笑い、空になったグラスを差し出した。
俺も自分のグラスを合わせる。
チンッ。
澄んだ音が、静かな個室へ響いた。
なんだか、新しい道が開けたような気がした。
◇◆◇
深夜。
宴を終え、すっかり冷え込んだカッセルの街を歩きながら、俺は酔い覚ましの夜風を肺いっぱいに吸い込んだ。
見上げれば、前世ではなかなか見られなかった満天の星空が広がっている。遠くの酒場から聞こえる陽気な歌声と、石畳を踏む俺の足音だけが、静かな夜を刻んでいた。
これから組を作るとして、その前にやっておきたいことがある。
残土の分類だ。
今までは何も考えず、工事で出たものを片っ端から収納していた。
だが今日、レイラに「足場は出せるか」と言われた時、俺は大量の残土の中から、階段に使えそうな頑丈な岩を選んで取り出さなければならなかった。
ほんのわずかな時間だったが、探すのに手間取った。
もし、あらかじめ土、砂利、岩という具合に分けておけば、もっと早く取り出せる。
それだけじゃない。
砂利や石は建築資材として使える。
肥えた土なら畑に使えるかもしれないし、粘土質の土ならレンガの材料にもなる。
(ただ捨てるだけじゃないのか)
俺は歩きながら、背負った革袋を握り直した。
残土は、誰かにとっては要らない物だ。
だが、必要としている奴のところへ持っていけば、価値が生まれる。
(残土を引き取って金をもらい、それをまた売る……)
なんだそれ。
ものすごく儲かりそうじゃないか。
レイラの一言がなければ、俺はずっと残土を片付けるだけの作業員で終わっていただろう。
少し傾いた木造の宿舎が見えてきた。
古びた扉の向こうでは、俺の帰りなど待たず、ダル親方たちが大いびきをかいているに違いない。
(明日の朝、一番に親方へ話そう)
独立すること。
自分の組を作ること。
そして、残土を使った新しい商売を始めること。
ズシリと重い金貨を背負い直す。
今まで、明日も今日と同じように土を掘るものだと思っていた。
けれど。
明日はきっと、少し違う一日になる。
そう考えると俺は、久しぶりに朝が来るのを楽しみに思えた。
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