第18話 復活祭
【ラーグ視点】
冬の間、カッセルの街を覆っていた重く冷たい雪は、とうに消え去っていた。
柔らかな春の日差しが石畳を照らし、ヘッセンの平野を吹き抜ける風にも、もう肌を刺すような冷たさはない。代わりに、新緑の青々とした匂いと、冬の眠りから覚めた土の温かな香りが混じっている。
春である。
そして今日は、復活祭――オーステルンと呼ばれる大切な祝日だった。
神の御子が死を克服し、復活したことを祝う日。
カッセルの中心にある大きな教会からは、朝から荘厳な鐘の音が響き渡り、改革派の礼拝へ向かう人々の波が続いていた。
「戦争も終わったし、たまには祭りくらい楽しむか」
俺は私服に身を包み、春の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
ダルムシュタットとの戦いは終わった。
皇帝からの無茶振りだった『ラーグ式要塞理論』の執筆と出版も、ようやく一段落した。
ハイリゲンローデ村を囲む星形要塞も形になり、久しぶりに手に入れた平和な休日である。
せっかくの春の祭りなのだ。
今日くらいは男爵という肩書きを忘れ、ただの土方のおっさんとして羽を伸ばしたかった。
とはいえ。
「酒だ酒だ! 今日は飲むよ、ラーグ!」
「レイラ、朝から飲むんですの?」
「祭りなんだから当たり前じゃないか! キリスト様だって、こんなにいい天気なら一杯やりたくなるはずさ!」
「復活祭ってそういう祭りなの?」
俺は思わずツッコミを入れた。
白い麻のブラウス姿のレイラは、すでにどこかの露店で買ったらしい木のジョッキを片手に、上機嫌で歩いている。
黒髪の双剣使いであるミラも、あきれたようにため息をついていた。
ただし、その手にはちゃっかり串焼き肉が握られている。
「ミラだって食ってるじゃないか」
「これは朝食ですわ」
「祭りの屋台で朝食を済ませる奴があるか?」
「美味しいからよろしいのです」
言い切った。
まあ、楽しんでいるなら何よりだ。
教会の厳かな雰囲気とは裏腹に、カッセルの街中はすでに宴会のような騒ぎに包まれていた。
広場や大通りには、所狭しと露店が立ち並んでいる。
焼きたてのパンの甘い香り。
脂を滴らせながら直火で焼かれる豚肉やソーセージ。
大きな樽から次々と注がれるエール。
商人の呼び声、楽器の音、笑い声。
子供たちは石畳の上を元気よく駆け回り、非番の兵士たちまで鎧を脱ぎ、昼間から赤い顔でジョッキを打ち鳴らしていた。
もともとカッセルでは、こうした祭りの日になると市民が豪勢に飲み食いし、酒盛りに夢中になりすぎるらしい。
方伯様からお叱りを受けることさえあるというのだから、相当なものだ。
(前世と大して変わらんなぁ)
縁日。
花見。
理由をつけて集まり、食って飲んで騒ぐ。
どうやら世界が変わっても、人間のやることは似たようなものらしい。
「ほら、ラーグ! ここの肉、うまいよ!」
「はいはい。あんまり飲みすぎるなよ。護衛なんだから」
「誰が酔い潰れるって? アタイの肝臓をなめないでおくれ」
レイラが豪快に笑い、俺の背中をバシッと叩いた。
「いてぇ!」
この女、本当に力が強い。
俺も露店でエールを一杯買い、春の日差しの中で口をつけた。
(うまっ)
喉を流れ落ちるエールの苦みが心地いい。
目の前では子供たちが笑い、大人たちは食べ、飲み、しゃべっている。
少し離れた教会からは、まだ鐘の音が聞こえていた。
平和だ。
今は、それだけで十分だった。
◇◆◇
広場を抜けると、さらに人通りが多くなってきた。
復活祭の翌週には、カッセル名物の年市が開かれる。
春の訪れとともに、冬の間は雪や泥に閉ざされていた街道が再び使えるようになり、各地から商人や農民が集まってくるのだ。
街のあちこちでは、すでにその準備が始まっていた。
荷馬車へ積まれた布。
革製品。
農具。
武器。
袋いっぱいの香辛料。
牛や羊の鳴き声まで聞こえてくる。
「さあさあ、南から届いた上等な布だよ!」
「鉄鍋はいらんかね!」
「そこの旦那! いい革が入ってるよ!」
商人たちの張りのある声が、春の街へ響く。
長い冬を越え、人々が待ち望んでいた活気が、カッセルへ一気に戻ってきたようだった。
「ずいぶんと人が増えましたわね。歩くのも一苦労ですわ」
「春だからな。商売人にとっちゃ、ようやく稼ぎ時が来たってことだろ」
俺は人波を避けながら、手にしたジョッキを揺らした。
雪が解ける。
街道が乾く。
馬車が通れる。
商人が動く。
物が流れる。
建設屋だった俺からすれば、実に分かりやすい話だ。
だが最近、軍事マニュアルを読み漁るようになったせいで、俺はもう一つの意味を知ってしまった。
(春になったってことは……冬営が終わる季節でもあるんだよな)
冬の間は、軍隊もそう簡単には動けない。
寒い。
道は雪や泥に埋まる。
兵士へ食わせる物も、馬へ食わせる草も不足する。
だから多くの軍隊は、街や村へ入り、冬を越す。
だが春になれば状況が変わる。
雪が解ける。
草が芽吹く。
街道が乾く。
馬車が動く。
重い大砲も運べるようになる。
商人が動き始めるのと同じように――軍隊もまた、動き始める。
「どうかしましたの、ラーグ様? 難しい顔をして」
ミラが串焼きを片手に、小首をかしげた。
「いや……」
俺は残っていたエールを飲み干し、青く澄んだ春の空を見上げた。
「今年は、戦争のない春になればいいんだがな」
「そうだねぇ。アタイも、しばらくは美味い酒と美味い飯だけを楽しみたいところさ」
「レイラは毎日楽しんでおりますでしょう」
「ひと言多いよ、チビ」
「誰がチビですの!」
レイラとミラが、いつものように言い合いを始める。
「はいはい。祭りの日くらい喧嘩すんなって」
俺は苦笑しながら、空になったジョッキを露店へ返した。
カッセルは今、統一ヘッセン方伯のもとで大きな力を持っている。
俺のハイリゲンローデ村には星形要塞もある。
傭兵たちの訓練も順調だ。
近隣の連中だって、そう簡単には手を出してこないだろう。
(まあ、杞憂ってもんだな)
今日くらいは祭りを楽しもう。
俺はそう決め、次の露店へ向かって歩き出した。
暖かな日差し。
鐘の音。
酒と肉の匂い。
笑い声に包まれたカッセルの街は、どこまでも平和そのものだった。
仮にどこかに敵がいたとしても――。
敵だって今日くらいは、復活祭を楽しんでいるだろう。
そんな気がした。
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