第17話 ラーグ要塞理論の執筆依頼【ラーグ成り上がり編・完 次へ続く】
【ラーグ視点】
空から、白い破片がひらひらと舞い落ちていた。
冬の冷たい風がカッセルの街を吹き抜け、石畳の通りを薄っすらと雪化粧で覆っていく。吐いた息は白く、頬へ当たる風は針のように冷たかった。
カッセル城。
その一角にある重厚な扉を開けると、暖炉で薪がパチパチとはぜる音とともに、心地よい温気が俺を包み込んだ。
「よく来たな、ラーグ男爵」
「お呼びとあらば、どこへでも。方伯様におかれましては、ご機嫌麗しゅう」
「堅苦しい挨拶はよい。そなたの顔には、現場から無理やり引き剥がされた不満が書いてあるぞ」
「滅相もございません」
「ふっ。まあよい、楽にせよ」
執務机の奥、深紅の絨毯が敷かれた部屋で、ヘッセン方伯が鷹揚にうなずいた。
いや、今は亡きダルムシュタット方伯を討ち果たし、名実ともにヘッセン全土を治める『統一ヘッセン方伯』である。
長年の宿敵を打ち破り、悲願の再統一を成し遂げたのだから、上機嫌なのも無理はない。方伯の手には、深紅のワインが注がれたクリスタルグラスが握られていた。
俺は勧められるまま、革張りの椅子へ腰を下ろした。
「今日そなたを呼んだのは他でもない。先日の戦いにおける、事後処理についてだ」
「事後処理、ですか? ダルムシュタットの領地は、すでに方伯様の軍が制圧したと伺っておりますが」
「領地そのものはな。だが、問題は外にある」
方伯はグラスを机へ置くと、一枚の羊皮紙を俺の前へ滑らせた。
そこには、見たこともないほど豪華な封蝋の跡が残されている。
黒い双頭の鷲。
さすがの俺でも、その意味くらいは知っていた。
「皇帝……」
「そうだ。神聖ローマ帝国皇帝、フェルディナント二世陛下からの書状だ」
思わず背筋が伸びる。
「我らヘッセンも、ダルムシュタットも、同じ神聖ローマ帝国に属している。皇帝陛下から見れば、今回の戦いは身内同士の争いに過ぎん」
「勝手に戦争して領地を奪ったとなれば、皇帝陛下も黙ってはいないと?」
「その通りだ。だから私は、先日の戦いの正当性と事の顛末を詳細に書き記し、ウィーンの宮廷へ使者を送った」
俺は小さくうなずいた。
先に戦争を仕掛けようとしたのはダルムシュタット側。
カッセルは自衛のために戦い、その結果として勝利した。
そういう大義名分である。
「結果から言えば、皇帝陛下は我がヘッセンの再統一を認めてくださった」
「おお。それは重畳ですね」
「うむ。ただし、一つ条件を出されてな」
「条件?」
方伯の口元が、妙に楽しそうに持ち上がった。
嫌な予感がする。
「皇帝陛下は、報告書に記されていた我々の戦法に大変興味を持たれたらしい。特に、ダルムシュタット軍を斜面で釘付けにし、十字砲火で粉砕した、あの奇妙な星形の砦にな」
やっぱり。
方伯の鋭い視線が、真っすぐ俺へ突き刺さった。
「ラーグ男爵。そなたが作り上げた要塞の構築法と、その防衛理論。それを一冊の本にまとめ、皇帝陛下へ献上せよとの仰せだ」
「…………」
「出版の許可も出た。ウィーンの宮廷へ献上するだけでなく、広く世へ出すことを皇帝陛下がお望みである」
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………」
俺は肺の中の空気を全部吐き出すような、長く深いため息をついてしまった。
一国の君主の前で。
しかも、皇帝からの命令を聞いた直後に。
我ながら、とんでもなく不敬である。
だが、方伯は怒るどころか、たまらなくおかしそうに笑い出した。
「はっはっはっ! 貴族に列せられながら、私を前にして堂々とため息をつくのは、世界広しといえどもそなたくらいであろうな!」
「申し訳ありません。ですが俺、ただの土方ですよ? 本なんて書いたこともありませんし……」
「書くのだ。皇帝陛下の勅命である」
「ですよねぇ……」
「それに、あの要塞はそなたの頭の中にしか図面がないのであろう?」
「それは……まあ、そうですが」
俺の『残土』のスキルと、前世の建設現場で覚えた知識を組み合わせて造った要塞だ。
どこに、どれだけ土を盛るのか。
どの角度で稜堡を配置するのか。
どうすれば敵から撃たれにくく、こちらからは十字砲火を浴びせられるのか。
細かい部分まで知っているのは、確かに俺しかいない。
「期待しているぞ、男爵。費用はすべて国が持つ。最高の紙とインクを用意させよう」
「……かしこまりました」
断れるわけがない。
俺は重い足取りで執務室を後にした。
城の外へ出ると、雪はさらに勢いを増していた。
冷たい風が頬へ吹きつける。
(本かぁ……)
現場で土を掘っている方が、百倍気が楽だった。
◇◆◇
数日後。
ハイリゲンローデ村の領主館では、俺が机へ突っ伏しながら唸り声を上げていた。
「あー……ダメだ。全然進まねぇ」
部屋には、新しい羊皮紙とインクの匂いが充満している。
机の上には白紙の束。
その横には、書き損じた紙。
さらに羽根ペンが何本も転がっている。
暖炉では赤々と薪が燃えているのに、俺の心は冷え切っていた。
「情けない声を出さないでおくれよ、男爵様。皇帝陛下からのご指名なんだろ?」
あきれたような声とともに、湯気を立てる紅茶のカップが机へ置かれた。
半裸で白いブラウス姿のレイラだ。
先ほどはイライラして、つい乱暴に抱いたが、彼女は「キャーおかされるぅー」と喜んでいた。
向かいの席では、双剣使いのミラが、俺の書き損じた紙を面白そうに眺めている。同じく半裸で「もっと」と喜んでいた。
「でも、不思議ですわね。ラーグ様は、ご自分の要塞の秘密を世に広めてしまってもよろしいのですか?」
「ああ。それなら問題ないよ」
俺は疲れた目をこすった。
以前、カッセルの本屋で大量の軍事マニュアルを買った時、ハインリヒ隊長が言っていた。
『本を持っていることと、兵を毎日訓練して体へ叩き込むことは別です。知っているだけで勝てるなら、誰も苦労はしませんよ』
要塞だって同じだ。
「あの星形要塞は、俺の『残土』があるから短期間で完成したんだ。普通の人間が人力だけで同じものを造ろうとしたら、膨大な人数と時間、それに金が必要になる」
「なるほどねぇ。設計図があったところで、簡単には真似できないってことかい」
「そういうこと。だから隠す意味もない」
問題は、そこではない。
どうやって、この複雑な構造を他人へ伝えるかだ。
俺は前世で、現場の作業手順書や施工要領書を読むのが好きだった。
新しい重機を使う時も。
初めての工法を試す時も。
まずマニュアルを読む。
何を、どの順番で、どう作業するのか。
そこが明確なマニュアルほど、現場で役に立つ。
(……待てよ)
俺は白紙の羊皮紙をじっと見つめた。
文字だけで説明しようとするから難しいんじゃないか?
先日買ったデ・ヘインの教練書だって、兵士の動きを大量の絵で説明していた。
だったら――。
(要塞だって、図にすりゃいいじゃないか)
その瞬間。
頭の中で、何かがカチリとはまった。
「よし……」
「ん?」
俺は椅子から体を起こした。
「ミラ。悪い、そこの定規を取ってくれ」
「はい、どうぞ」
「レイラ。インクの予備、出しておいてくれないか」
「アンタ、急にやる気になったねぇ」
レイラがニヤニヤ笑っている。
「どうせ書くなら、中途半端なものは嫌なんだよ」
俺は新しい羊皮紙を机いっぱいに広げた。
羽根ペンへインクを含ませる。
カリカリカリ――。
静かな部屋に、ペン先が紙を走る音が響き始めた。
まず、要塞全体を上から見た図。
星形になるよう配置した稜堡。
互いを守るよう交差する砲火。
低く、分厚い土塁。
敵の砲弾を真正面から受け止めないための角度。
外堀。
砲台。
そして、土を簡単に崩さないための締め固め。
「ここは……いや、文章じゃ分かりにくいな」
線を引く。
数字を書き込む。
断面図を描く。
「ラーグ、楽しそうだねぇ」
「そう見える?」
「最初の死にそうな顔が嘘みたいですわ」
否定できない。
いつの間にか、俺は完全に夢中になっていた。
誰が読んでも理解できる。
何をすればいいのか、一目で分かる。
現場でそのまま使える。
どうせなら、そんな完璧な『要塞構築マニュアル』にしてやる。
(そうだよ。これなら俺の得意分野じゃないか)
本を書くと思うから難しかったのだ。
これは施工要領書だ。
そう考えた瞬間から、羽根ペンは止まらなくなった。
◇◆◇
それから、しばらくの時が流れた。
俺が書き上げた原稿はカッセルの印刷所へ運び込まれ、やがて一冊の分厚い本となって戻ってきた。
表紙には、星形の幾何学模様。
その上に、大きな文字が印刷されている。
『ラーグ式要塞理論』
「……本当に本になっちまった」
ずっしりとした重みを両手で確かめる。
最初の一冊は、皇帝フェルディナント二世陛下へ献上された。
ウィーンの宮廷での評判は上々だったらしい。
そして、皇帝と方伯の許可のもと、一般向けにも出版されることになった。
そこで終わるはずだった。
俺としては、皇帝陛下への宿題を片付けた。
その程度の認識だったのだ。
ところが――。
◇◆◇
春。
窓から差し込む柔らかな日差しの中、俺は領主館の執務室で目を丸くしていた。
「ラーグ様! またアムステルダムのルイ・デ・ヘール商会から、百冊の追加注文が来ておりますわ!」
「フランスからも注文の束が届いてるよ! 印刷所のオヤジが、嬉しい悲鳴を上げてぶっ倒れそうだってさ!」
「……マジで?」
ミラとレイラが、それぞれ大量の注文書を抱えている。
窓の外では、雪はとうに消えていた。
村を囲む星形要塞の黒い土塁には青々とした草が芽吹き、その向こうでは農民たちが春の畑仕事を始めている。
「そんなに売れてるのか?」
「ええ。各国の君主や将軍たちが、こぞって買い求めているそうですわ」
「なんでも、ダルムシュタット軍を一方的にすり潰したって戦果が、ずいぶん尾ひれをつけて広まってるらしいよ」
「一方的って……いや、まあ、間違っちゃいないけど」
俺は机の上に置かれた『ラーグ式要塞理論』を手に取った。
パラパラとページをめくる。
上から見た配置図。
土塁の断面図。
作業手順。
必要な人員。
砲を置く位置。
敵へ十字砲火を浴びせるための射線。
どう見ても、前世の施工管理マニュアルだった。
(現場の作業マニュアルが、こっちの世界でベストセラーになるとはなぁ……)
俺は窓の向こうに広がる、平和なハイリゲンローデ村を眺めながら苦笑した。
俺は軍事の天才なんかじゃない。
ただの三十七歳の土方のおっさんだ。
いや、新年になったから数え年で三十八歳だな。
分かりやすい作業手順書を作った。
ただ、それだけのつもりだった。
だが後世の軍事学者や歴史家たちは、この一冊をそう簡単には扱ってくれなかった。
『ラーグ式要塞理論』。
近代要塞建築の基礎を築き、ヨーロッパ各地の戦場から高い城壁を過去のものへと変えていった――。
後にそう評される一冊は、こうして俺の趣味から生まれたのである。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




