第15話 3ポンド砲と革砲
【ルイ・デ・ヘール視点】
オランダ、アムステルダム。
冬の運河を吹き抜ける風は、刃のように冷たく湿っている。窓の外からは、海鳥の甲高い鳴き声と、行き交う荷船が立てる鈍い水音が絶え間なく聞こえていた。
どんよりと垂れ込めた鉛色の空。黒ずんだ水面をゆっくり進む荷船。運河沿いの倉庫では、今日も世界中から集められた品々が積み下ろされている。
この街特有の重苦しい冬景色を嫌う者もいるが、私にとってはこの上なく心地よい。
塩の匂いと、泥の匂い。
そして、倉庫へ運び込まれる香辛料や木材、鉄、革の匂い。
それはすなわち――富が流れ込む匂いである。
私は暖炉の火が赤々と燃える執務室で、重厚な机に広げられた数々の手紙へ目を通していた。最高級の茶葉で淹れた紅茶から芳醇な香りが立ち上り、インクと羊皮紙の古い匂いに混ざっている。
「……素晴らしい。実に素晴らしい」
思わず、口元から満足げな笑みがこぼれた。
最近、我がルイ・デ・ヘール商会には、とびきりの上客がいるのだ。
ヘッセンのラーグ・フォン・ハイリゲンローデ男爵。
つい先日まで平民の建設作業員だったと聞く。だが、そんな経歴など商人である私にはどうでもいい。
王族だろうが、貴族だろうが、平民だろうが、金貨に身分の違いなどないのだから。
重要なのは、彼が支払う代金が紛れもない本物の黄金であることだ。
ドラゴン討伐の報酬として莫大な金貨を得たという噂は聞いている。だが、それだけではない。
あの男は恐ろしいほどの速度で自らの領地を要塞化し、そのために必要な武器や資材を次々と買い上げている。
しかも、金払いがいい。
商人にとって、これ以上ありがたい客はいない。
「ふふっ……」
私は手紙を一枚持ち上げ、暖炉の明かりへ透かして見た。
先日の戦いでは、私がヘッセン=ダルムシュタット方伯へ売った青銅製の重砲三十門と、ラーグ男爵へ売った同じ重砲が、同じ戦場で火を噴き合うという喜劇まで起きたらしい。
我ながら、実にいい仕事をした。
どちらの砲も良く働いたことだろう。
そして勝ったのは、ラーグ男爵の側だった。
彼は今や統一ヘッセンにおいて、確固たる地位を築きつつある。
つまり――。
(今後、ますます金を使ってくれるということだ)
勝者は領地を守らなければならない。
兵士を雇う。
城壁を築く。
武器を買う。
火薬を蓄える。
そして、さらに勝てば領地が増え、守るべき場所も増える。
戦争というものは、実によく金を食う。
私は上機嫌で、ラーグ男爵から届いた新たな注文書へ目を落とした。
『今度は、歩兵が持って移動できるような、軽くて扱いやすい砲が欲しい』
「歩兵が持てる砲、か……」
羽根ペンを指先でゆっくりと転がす。
面白い注文だ。
大砲というものは、本来重い。
大きな砲ほど威力は増すが、その分だけ運ぶのが難しくなる。馬を何頭もつなぎ、砲兵や荷車をそろえ、道の状態まで気にしなければならない。
雨が降れば泥に車輪を取られる。
橋が弱ければ渡れない。
一度据えた砲を別の場所へ動かすだけでも、ひと仕事である。
だが最近、戦場では機動力を重視した軽い砲を求める声が、確実に増えていた。
「よし。三ポンド砲を売ってやろう」
私は一人、静かにうなずいた。
三ポンドの砲弾を撃つ、小型の青銅砲。
重砲と比べれば、はるかに軽い。もちろん一人で担いで走るような代物ではないが、歩兵数名でも押して位置を変えられる。
歩兵の列に付き従い、必要な場所へ素早く移動する。
敵の歩兵が固まっていれば、鉄球を撃ち込む。
騎兵が近づけば、砲口をそちらへ向ける。
城壁を粉々にするための砲ではない。
だが、人間を相手にするなら十分すぎる。
「ラーグ男爵なら、面白い使い方をするかもしれんな」
あの男には、土を自由に出し入れできるという奇妙な力があるらしい。
重砲より軽い三ポンド砲なら、即席の陣地を作りながら次々と場所を変えることもできるだろう。
上客には誠意を見せなければならない。
最高の品を。
可能な限り早く。
それこそが、次なる黄金を呼び込む。
私は注文書を机へ戻すと、その脇に積まれていた別の書状へ視線を移した。
そこに押された封蝋を見て、わずかに目を細める。
スウェーデン王家の紋章。
北方の獅子――グスタフ・アドルフ王からの注文書である。
彼もまた、戦場というものを大きく変えようとしている男の一人だった。
「こちらは……革砲か」
薄い金属の筒を縄などで補強し、その外側を革で覆う。
普通の青銅砲とは比べものにならないほど軽い。
馬一頭でも容易に引けるほどの機動力を持ち、戦場で素早く位置を変えられる。
もっとも、当然ながら欠点もある。
軽さと引き換えに、頑丈さでは青銅砲に及ばない。
何度も続けて火薬を爆発させれば砲身は熱を持ち、傷みやすくなる。
(革砲か。興味深い試みだが……信頼性なら、やはり青銅の三ポンド砲だな)
私は顎を指先でなぞった。
だが、グスタフ・アドルフという男が何を考えているのかは分かる。
重い砲を後方へ並べ、敵が来るのを待つだけではない。
歩兵とともに砲を動かすのだ。
敵が動けば、こちらも動く。
戦場の形が変われば、砲も場所を変える。
より速く。
より柔軟に。
ラーグ男爵の求める三ポンド砲。
グスタフ・アドルフ王が求める革砲。
まったく別の場所にいる二人の男が、偶然にも同じ方向を見ている。
(時代が変わるのかもしれんな)
重く鈍重な大砲を、一カ所に据えて撃ち合う時代から。
小さな砲が歩兵とともに戦場を駆け回る時代へ。
窓ガラスが、ガタガタと鳴った。
運河から吹きつけた冬の風が、建物そのものを揺さぶっている。
私はティーカップを手に取り、琥珀色の液体を一口飲んだ。柔らかな香りと熱が舌から喉へ落ち、冷えていた体の奥へじんわりと広がっていく。
世の王侯貴族たちは、正義や信仰、領土や名誉のために血を流す。
自らの旗を掲げ。
神の名を叫び。
泥にまみれながら殺し合う。
だが、私は違う。
私は商人だ。
金さえ積めば、一つの軍隊を丸ごと武装させるほどの物資をそろえることができる。
ラーグ男爵にも売る。
ヘッセン=ダルムシュタット方伯にも売る。
グスタフ・アドルフ王にも売る。
誰が勝とうが、誰が負けようが、知ったことではない。
私にとって重要なのは、正義でも信仰でもない。
代金を払えるかどうかである。
「さあ、良い物を売ろうではないか」
私は冷たい灰色の空へ向かって、乾杯するようにティーカップを掲げた。
遥か彼方では、今日も砲声が鳴っていることだろう。
砲弾が飛べば、次の砲弾が必要になる。
砲が壊れれば、新しい砲が必要になる。
戦火が燃え広がるほど、私の金庫は重くなる。
商売という名の果てしない戦場において――。
最後に笑うのは、いつだって我々商人なのだから。
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