第13話 焦り
【ヘッセン=ダルムシュタット方伯視点】
初冬の冷たい空気を切り裂くように、軍馬のいななきと、重い車輪のきしむ音が城の中庭へ響いていた。
私は執務室の窓辺に立ち、眼下に広がる光景を満足げに眺めていた。
ついに届いたのだ。
ネーデルラントの大商人、ルイ・デ・ヘールから買い付けた大量の武器が。
分厚い布をかぶせられた何十台もの荷馬車が、次々と中庭へ入ってくる。
兵士たちが布を取り払った。
その下から現れたのは、鈍い輝きを放つ真新しい青銅製の重砲だった。
三十門。
さらに、木箱へ詰められた五千丁ものマスケット銃。
騎兵用のピストル。
火薬。
鉛玉。
その他、戦に必要な大量の軍需品が次々と倉庫へ運び込まれていく。
(見事だ)
これだけの火力があれば。
カッセルなど恐れるに足らない。
「あとは兵に新しい武器の扱いを覚えさせ、高地を奪取する訓練を行うだけか」
私は手元のグラスを軽く揺らした。
「カッセルの命運も、もはや尽きたな」
赤いワインが、グラスの中でゆらゆらと揺れる。
勝利の美酒を飲み干す日も近い。
そう思った。
その時だった。
バンッ!
背後の扉が乱暴に開いた。
「何事だ!」
私は思わず振り返る。
黒い外套をまとった密偵の長が、肩で激しく息をしながら立っていた。
普段なら足音一つ立てず、影のように現れる男だ。
その男が。
明らかに狼狽している。
「申し訳ございません、御前。緊急の報告がございます」
「申せ」
「はっ」
密偵の長は片膝をついた。
「カッセル周辺の高地を探らせていた者たちが……戻りません」
「何?」
一瞬、意味が分からなかった。
「戻らぬとは、どういうことだ」
「予定の期日を過ぎても連絡がございません。こちらから接触を試みましたが、反応なし。遺体すら発見できておりません」
「…………」
ピキリ。
こめかみの奥が痛んだ。
私が狙っているのは、カッセルを見下ろす二つの高地。
北のメンヒェベルク。
そして南のヴァインベルク。
そこへ送り込んだ腕利きの密偵が消えた。
「……気づかれたか?」
思わず声が漏れた。
私は窓へ近づき、遠い北の空をにらみつける。
(まずい)
カッセルの最大の弱点。
あの二つの高地。
そこへ重砲を運び込み、市街と要塞内部を直接砲撃する。
それこそが、私の考えた必勝の策だ。
だが。
もしカッセル方伯も高地の重要性に気づいたとしたら。
兵を置く。
陣地を築く。
道を封鎖する。
そうなれば、重砲を運び込むことすら難しくなる。
(時間を与えてはならん)
敵が高地を固める前に。
こちらが奪う。
今ならまだ間に合う。
「訓練は中止だ」
「……は?」
密偵の長が顔を上げた。
「全軍へ伝えろ。直ちにカッセル攻略へ向かう」
「ご、御前!」
男が珍しく声を荒らげた。
「お待ちください! 兵たちは、まだ新しいマスケットの扱いに慣れておりません! 重砲も届いたばかりで、輸送の編成すら――」
「ええい、構わん!」
「しかし!」
「敵が高地を要塞化してからでは遅いのだ!」
私は机を拳で叩いた。
ガンッ!
「準備が整うのを待っている間に、最大の好機を失ってどうする! 全軍を動かせ!」
「……承知、いたしました」
密偵の長が深く頭を下げる。
私は再び、北の空へ目を向けた。
(まだ間に合う)
そう。
この時の私は。
そう信じていた。
◇◆◇
それから間もなく。
我がヘッセン=ダルムシュタット軍は、凍てつく寒風の中を強行軍で北上していた。
新しいマスケットの扱いに戸惑う兵。
重砲を引く馬。
ぬかるみに車輪を取られ、怒鳴り声を上げる砲兵。
本来なら、もっと時間をかけて整えるべきだっただろう。
だが、そんな暇はない。
高地さえ先に押さえればいい。
そこへ大砲を並べれば。
勝てる。
そして我が軍は、ついに目的地へ到着した。
カッセルを望む二つの高地。
メンヒェベルクとヴァインベルク。
「…………」
馬上からその光景を見た瞬間。
私は言葉を失った。
「……なんだ、あれは」
丘の上に。
何かがある。
つい先日まで、何もなかったはずの高地。
その頂に。
小ぶりな砦が築かれていた。
「馬鹿な……」
石造りではない。
黒い土を、分厚く。
そして異様なほど固く盛り上げた土塁。
高さはそれほどない。
だが。
その形が異様だった。
外へ向かって鋭く突き出した角。
隣り合う土塁同士が、互いの前面を守るように配置されている。
まるで大地へ巨大な星を描いたかのような、幾何学的な砦。
それが。
二つの高地に築かれている。
「いつの間に……!」
そして。
さらに私を苛立たせるものがあった。
砦の上で、初冬の風にはためく旗。
「カッセルの旗ではない……?」
赤と銀の縞模様の獅子ではない。
土色の布。
その中央に。
銀色のスコップが二本。
交差して描かれていた。
「…………」
目を疑う。
「スコップ?」
もう一度見る。
どう見てもスコップだ。
「……ふざけおって!」
私は思わず怒鳴った。
どこの誰だ。
よりによって、我が必勝の策を邪魔する場所へ陣取り。
スコップなどというふざけた旗を掲げているのは。
「砦は小さい!」
私は剣を抜いた。
「兵を分けろ! 両高地を同時に攻め落とせ!」
「はっ!」
「前進せよ! あんな土くれの砦など踏み潰せ!」
「オオオオオオッ!」
鬨の声が上がる。
ダルムシュタット軍の歩兵たちが、二つの高地へ向かって一斉に進み始めた。
数はこちらが圧倒している。
所詮は急造の小さな砦。
近づいてしまえば。
踏み潰せる。
そう思った。
次の瞬間。
ドゴォォォォンッ!!
「なっ!?」
丘が。
火を噴いた。
空気を引き裂く恐ろしい音。
その直後。
ドォンッ!
先頭を進んでいた歩兵のすぐそばへ、巨大な鉄球が着弾した。
「ぎゃああああっ!」
「砲撃だ!」
「伏せろ!」
土煙が舞い上がる。
兵士たちの悲鳴が響く。
だが。
一発ではない。
ドゴォン!
ドォン!
ドゴォォン!
「なんだと!?」
星のように張り出した土塁。
その複数の角から。
大砲が一斉に火を噴いていた。
一方向ではない。
斜面を登る我が軍へ。
右から。
左から。
正面から。
砲弾が交差するように飛び込んでくる。
「十字砲火だと!?」
あの砦。
ただ土を盛っただけではない。
最初から。
敵を斜面へ誘い込み、複数方向から撃ち込むために作られている。
「大砲まで備えているのか!」
私は砦の上をにらみつけた。
火を噴く砲。
その青銅の砲身。
鈍い輝き。
「…………待て」
見覚えがある。
「まさか……」
私は振り返った。
後方には。
我が軍が必死に運んできた、最新の青銅製重砲が並んでいる。
もう一度、丘を見る。
同じだ。
ほとんど同じ形。
「うおのれぇぇぇぇッ!」
思わず絶叫した。
「ルイ・デ・ヘールッ! 敵にも売りおったかぁぁぁッ!」
金さえ払えば、誰にでも武器を売る。
分かっていた。
分かっていたはずなのだ。
だが。
まさか同じ時期に。
同じ場所で戦う相手へ。
同じ大砲を売っているとは!
「商人めぇぇぇッ!」
怒鳴ったところで、砲弾は止まらない。
ドォン!
また一発。
斜面を登る兵の中へ砲弾が突き刺さる。
「怯むな!」
私は声を張り上げた。
「進め! 砲撃など撃ち続けられるものではない! 土塁へ取り付き、白兵戦へ持ち込め!」
兵たちが再び進む。
倒れた仲間を乗り越え。
砲撃の間を縫い。
じりじりと。
斜面を登っていく。
やがて。
「取り付いたぞ!」
「登れ!」
「壁を越えろ!」
我が軍の先鋒が、ついに土塁の下へ到達した。
(よし)
私は拳を握った。
大砲には死角がある。
砦へ接近してしまえば、その威力は激減する。
数ではこちらが勝っている。
白兵戦なら。
(押し潰せる!)
そう思った時だった。
「報告! 報告ぅぅぅッ!」
背後から馬蹄の音が迫ってきた。
血相を変えた伝令が、馬を飛ばしてやってくる。
「何事だ!」
「て、敵です!」
「敵なら目の前にいる!」
「違います!」
伝令の顔が青ざめていた。
「側背より、ヘッセン=カッセル軍! 大軍です! 恐らく本軍かと!」
「…………何?」
私は弾かれたように振り返った。
冷たい風が吹き抜ける平野。
その向こうに。
土煙が立ち上っている。
赤と銀。
無数の旗。
ヘッセンの獅子。
「馬鹿な……」
騎兵。
歩兵。
マスケット兵。
砲兵。
カッセル本軍が。
整然と隊列を組みながら、我が軍の側背へ回り込もうとしていた。
「なぜ……!」
その瞬間。
すべてがつながった。
消えた密偵。
突然現れた高地の砦。
そして。
待ち構えていたカッセル本軍。
「してやられた……!」
私は歯を食いしばった。
あの砦は。
ただ高地を守るためのものではない。
我が軍を引きつけるための陣地でもあったのだ。
高地を奪わなければ、カッセルを砲撃できない。
だから私は兵を丘へ向かわせる。
分厚い土塁へ取り付くため。
軍は斜面へ張り付く。
動けなくなる。
そこへ。
カッセル本軍が襲いかかる。
(あの砦は……金床か)
そして。
カッセル本軍が、槌。
「私の軍を……挟み潰すつもりか!」
完璧だった。
高地を守り。
敵を引きつけ。
動きを止め。
本軍で側背を突く。
私は。
まんまと、その中へ飛び込んだ。
(焦ったからだ)
密偵が消えた。
高地を取られる。
そう考え。
訓練を中止し。
準備も整わぬまま。
強引に軍を動かした。
「御前!」
側近が叫ぶ。
「退却を! 今ならまだ――」
「退却?」
私は乾いた笑いを漏らした。
「どこへ逃げるというのだ」
前には。
大砲を備えた、奇妙な土の砦。
側背には。
カッセルの本軍。
しかも我が軍は二つの高地へ向けて兵を分けてしまっている。
隊列を立て直す時間などない。
退路は。
急速に狭まりつつあった。
銃声が響く。
ダァン!
ダァン!
ダダダァン!
兵が倒れる。
馬が悲鳴を上げる。
砲弾が大地をえぐる。
我が軍が。
じわじわと。
すり潰されていく。
「…………」
私は腰の剣へ手を伸ばした。
長年。
ヘッセンを統一することだけを考えてきた。
カッセルを引きずり下ろし。
我こそが真のヘッセンの主になる。
そのために。
密偵を送り。
弱点を探り。
国庫を開き。
大砲を揃えた。
完璧な情報。
完璧な戦術。
圧倒的な火力。
勝てるはずだった。
「……ここまでか」
私は剣を抜いた。
シャキンッ!
せめて。
一国の主として。
逃げ惑い、背中を撃たれて死ぬような無様な真似だけはするまい。
「者ども!」
軍馬の手綱を握り締める。
「我こそは、ヘッセンの真の主!」
剣を掲げた。
「ヘッセン=ダルムシュタット方伯なり!」
残った兵たちが私を見る。
「私に続けぇぇぇぇッ!」
「オオオオオオッ!」
私は軍馬の腹を蹴った。
駆ける。
迫り来るカッセル軍へ。
赤と銀の獅子の旗へ。
一直線に。
その時。
視界の端に。
丘の上ではためく、ふざけた旗が見えた。
土色。
そして。
交差する、二本の銀色のスコップ。
(あの旗……!)
ダァァァァンッ!
無数の銃声が重なった。
「ぐっ――!」
体中に。
熱い衝撃が走る。
手から剣が落ちた。
世界が大きく傾く。
馬の背から転げ落ちた。
ドサッ。
頬に触れる。
冷たい。
初冬の土。
鼻をかすめる、硝煙の匂い。
遠くで。
兵たちの声が聞こえる。
だが。
もう何を言っているのか分からない。
(あの……)
薄れていく視界の中。
最後まで見えていたのは。
丘の上に翻る。
銀色のスコップ。
(ふざけた……スコップの旗め……)
それが、私がこの世で最後に抱いた、底知れぬ憎悪と、どうしようもない無念だった。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




