第12話 ラーグ男爵の警告
【ヘッセン=カッセル方伯視点】
磨き上げられた大理石の床に、重い靴音が慌ただしく響いていた。
やがて執務室の分厚い扉が開く。
姿を現したのは、先日男爵に叙したばかりの男。
ラーグ・フォン・ハイリゲンローデだった。
よそ行きの服を身につけてはいるものの、相変わらずどこか泥臭さが抜けない。
ついこの間まで、カッセルの工事現場で働いていた元平民である。
私は革張りの椅子へ深く腰掛けたまま、鷹揚にうなずいてみせた。
「急な面会とは珍しいな、男爵。領地の開発で行き詰まりでもしたか?」
「いえ、方伯様。本日は、このカッセルの防衛についてお耳に入れたきことがございまして」
ラーグ男爵は、わずかに息を切らしていた。
額には薄く汗がにじみ、その顔には普段ののんびりとした雰囲気がない。
何か、ただならぬものを見てきたらしい。
私は片方の眉をわずかに上げた。
「防衛だと? 我がカッセルの要塞について、そなたが何か申すというのか」
「はい。僭越ながら、俺……いえ、私の前職の経験から申し上げます」
男爵が一歩前へ出る。
「カッセルを見下ろせる、周囲の高地についてです」
そのまま窓の外を指さした。
「あの丘から見れば、カッセルの市街も、兵舎も、このお城も丸見えです。もし敵が高地を押さえて、そこへ大砲を並べたら……どれだけ城壁が分厚くても、内側へ直接砲弾を撃ち込まれます」
「…………」
「あの高地は、この街の致命的な弱点です」
私は目を細めた。
(平民上がりの土使いが、軍略まで語るか)
一瞬、そう思った。
だが。
その指摘が的外れではないことも、私は知っている。
カッセルの防備は堅い。
分厚い土塁。
深い堀。
外へ張り出した稜堡。
莫大な資金と長い年月をかけて築き上げてきた、我が領地の誇る防衛施設だ。
正面から攻め寄せる敵に対しては、鉄壁と言っていい。
しかし。
周囲の高地への備え。
そこだけは、以前から気になっていた。
一部の将軍や築城に詳しい者からも、高地を敵に取られた場合の危険性は指摘されている。
(この男……それを一目で見抜いたというのか?)
軍人でもない。
築城家でもない。
ただの建設作業員だった男が。
「それに今日、あの丘で不審な者を討ち取りました」
「不審な者だと?」
「はい。恐らく、どこかの密偵かと」
ラーグ男爵の表情がさらに険しくなる。
「俺たちを狙っていたのか、それとも地形を調べていたのかは分かりません。ただ、この場所の弱点を探っていた可能性があります」
その言葉を聞いた瞬間。
私の脳裏に、一人の男の顔が浮かんだ。
南。
ヘッセン=ダルムシュタット方伯。
(奴か……?)
同じヘッセンの血を引きながら、我らカッセルを目の敵にしている男。
あちらも常に、こちらの隙を探っている。
密偵を送り込んでいても、何ら不思議ではない。
だが。
ここで一国の主たる私が、新米男爵と一緒になって顔を青くするわけにはいかない。
為政者は。
常に泰然としていなければならないのだ。
「はっはっは!」
私はわざと大きな声で笑った。
「気にしすぎだ、男爵」
「方伯様……ですが!」
「よいか、ラーグよ」
私はゆっくりと立ち上がった。
「我がカッセルの要塞は、そう易々と破られるようなやわな造りではない」
「ですが、高地からなら――」
「分かっておる」
私は男爵の言葉を手で制した。
「あの高地へ何門もの重砲を運び上げるとなれば、それだけでも大仕事だ。道を整え、砲を運び、陣地を築く。それを我らに気づかれず行えるものではない」
男爵の肩を、軽く叩く。
「そなたの忠誠心はありがたい。ベルリンでの働きについても、私は高く評価している」
「…………」
「だが、軍事については我が国の将軍たちに任せておけばよい。そなたは、まず自らの領地を発展させることを考えてくれ」
「……はっ」
男爵は、まだ何か言いたげだった。
口元をわずかに歪め、しばらく私を見つめている。
だが、やがて諦めたように深く頭を下げた。
「では、私はこれで失礼いたします」
「うむ」
男爵が背を向ける。
重い扉が開き。
再び閉じた。
足音が廊下の奥へ遠ざかっていく。
執務室に、静寂が戻った。
「…………」
私はしばらく、その扉を見つめていた。
そして。
ゆっくりと窓辺へ歩み寄る。
冷たいガラス越しに、ラーグ男爵が指摘した方角へ目を向けた。
冬枯れの木々に覆われた丘。
静かに。
ただ静かに。
カッセルの街を見下ろしている。
(気にしすぎ、か……)
自分で口にした言葉が、妙に胸に引っかかった。
本当にそうだろうか。
あの男は、ただの平民ではない。
ドラゴンを大量の土で生き埋めにした。
ベルリンでは、デンマーク軍の攻撃を土で防ぎ、城壁を守った。
それだけの力を持つ男が。
血相を変えて、わざわざ私のもとへ駆け込んできたのだ。
しかも。
密偵らしき者まで現れたという。
「……おい」
私は窓の外を見たまま、低く声をかけた。
「はっ」
背後から返事があった。
部屋の隅に控えていた侍従が、一歩前へ進み出る。
「男爵はああ言って帰したが……念のため、あの丘について調べろ」
「御意」
「周囲に不審な者がいないか。最近、見慣れぬ商人や旅人が出入りしていないか。それも含めて調べさせろ」
「承知いたしました」
侍従は深く頭を下げる。
そして、足早に部屋を出ていった。
(万が一ということもある)
もしダルムシュタットのネズミどもが領内へ潜り込んでいるのなら。
早いうちに、すべて駆除しなければならない。
私は窓辺を離れた。
執務机の上には、銀のトレイが置かれている。
その上からクリスタルグラスを一つ手に取り、封を切ったばかりのワインを静かに注いだ。
トクトクトク……。
澄んだ音とともに。
血のように赤い液体が、グラスの底へ満ちていく。
芳醇なブドウの香りが鼻をくすぐった。
「さて……」
私は一口含んだ。
渋みと甘みを、ゆっくり舌の上で転がす。
窓の外。
冷たい初冬の空の下で、カッセルの街はいつもと変わらぬ姿を見せている。
だというのに。
なぜか胸の奥には、先ほどの男爵の言葉が残り続けていた。
高地。
重砲。
密偵。
「……考えすぎであれば、それでよい」
私は小さく呟いた。
何も起こらなければ。
それに越したことはない。
だが。
もし本当に、何者かがカッセルへ牙をむこうとしているのなら。
その時は。
ヘッセン=カッセルの主として、容赦なく叩き潰すまでだ。
私はグラスを傾けながら、再び窓の外の高地へ目を向けた。
静かな丘は。
まるで何も知らぬふりをするかのように。
今日もカッセルの街を見下ろしていた。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




