第10話 弱点の高地とルイ・デ・ヘール商会
【ヘッセン=ダルムシュタット方伯視点】
分厚い石壁に囲まれた執務室。
窓ガラスを、凍てつくような初冬の夜風がガタガタと叩いていた。
暖炉では乾燥した薪がパチパチとはぜ、その音だけが静まり返った部屋へ規則正しく響いている。
私は重厚なマホガニーの執務机へ身を乗り出し、広げられた一枚の巨大な羊皮紙を食い入るように見つめていた。
溶けた蜜蝋の甘い匂いに、古いインクの香りが混じる。
羊皮紙に描かれているのは、我がヘッセン=ダルムシュタットの密偵たちが持ち帰った、ヘッセン=カッセル周辺の地形図と要塞の防衛配置図だった。
「……やはりな。カッセル方伯め、自らの足元がまるで見えておらぬらしい」
「御意にございます、御前」
部屋の片隅から低い声が返ってきた。
黒い外套をまとい、闇へ溶け込むように立っている男。
我が密偵網を束ねる者である。
「奴らはベルリンでの勝利に沸いております。自らの防備は盤石だと考えている者も少なくありません。しかし、この図面を見る限り、カッセルの要塞は決して完璧ではございません」
「ああ」
私は羊皮紙の上へ指を滑らせる。
「北のメンヒェベルク。そして南のヴァインベルク。この二つだ」
カッセルの街を挟むように存在する、二つの高地。
私はその場所を、指先でトントンと叩いた。
確かに、カッセルの防備そのものは堅い。
市街は城壁だけで守られているわけではない。
分厚い土塁。
深い堀。
外へ張り出した稜堡。
大砲による攻撃を受けることまで考えた、かなり新しい造りだ。
真正面から攻めれば、相当な犠牲を覚悟しなければならないだろう。
だが。
どれほど強固な要塞にも、弱点はある。
「城壁をいくら分厚くしようと、上から見下ろされては意味がない」
私はメンヒェベルクを指さし、続いてヴァインベルクへ指を移した。
「この二つの高地を我が軍が押さえ、そこへ重砲を運び上げればどうなる?」
「カッセル市街。そして要塞内部まで、砲撃可能になります」
「その通りだ」
自然と口元が歪む。
「わざわざ堅牢な土塁を正面から撃ち崩す必要などない。高地から、その内側へ砲弾を降らせればよいのだ」
市街。
兵舎。
倉庫。
方伯の居城。
城壁の後ろへ隠れているつもりの者たちへ、頭上から砲弾を叩き込む。
「重砲を並べ、一斉に撃つ。さすればカッセルは、逃げ場のない火の海と化す」
「見事な策にございます」
「当然だ」
私は椅子へ深く腰掛けた。
長年、あの忌々しい赤と銀の縞模様の獅子を、どうすれば地へ引きずり下ろせるのか。
そればかりを考えてきた。
どれほど強固な盾にも、必ず綻びはある。
私はカッセル方伯とは違う。
優秀な密偵をあらゆる場所へ送り込み、敵の弱点を探り、その最も脆い場所へ最大の力を叩き込む。
力任せの戦など下策だ。
敵の弱点を、圧倒的な火力で突く。
それこそが上に立つ者の戦い方というものだ。
「して、頼んでおいた『品』の調達は?」
「はっ」
密偵が頭を下げる。
「ネーデルラントの『ルイ・デ・ヘール商会』との交渉は、無事まとまりました」
「ほう」
「彼らも、気前よく黄金を支払う客には、極上の品を惜しみなく揃えてくれるようでございます」
ルイ・デ・ヘール。
ネーデルラントのアムステルダムを拠点に、ヨーロッパ各地へ軍需品を売る大商人だ。
銃。
大砲。
槍。
剣。
甲冑。
火薬。
金さえ積めば、一つの軍隊を丸ごと武装させるほどの物資を揃えるという。
商人にとって重要なのは、正義でも信仰でもない。
代金を払えるかどうか。
実に頼もしい話だ。
私はカッセルを確実に叩き潰すため、ダルムシュタットの国庫を大きく開き、彼らとの取引を命じていた。
「大砲は?」
「最新の青銅製重砲、三十門」
「三十門か」
悪くない。
「加えて、歩兵用のマスケット銃を五千丁。騎兵用のピストルを二千丁。弾薬と火薬も大量に確保しております」
「輸送は?」
「すでに始まっております。いくつもの荷馬車へ分散し、積み荷を偽装した上で、こちらへ向かわせております」
「見事だ。よくやった」
私は満足してうなずいた。
三十門の重砲。
それらがメンヒェベルクとヴァインベルクへ並ぶ光景を想像する。
ドォン!
重砲が火を噴く。
黒い砲弾が空気を引き裂き、カッセルの街へ降り注ぐ。
屋根が吹き飛ぶ。
石壁が砕ける。
兵舎が崩れ落ちる。
方伯の城にも、容赦なく鉄球が叩き込まれる。
混乱した兵が城外へ出てくれば、今度は五千丁のマスケットが待っている。
(これなら勝てる)
硝煙の匂いが、すでに鼻先をかすめているような気さえした。
「そういえば……」
私はふと、以前聞いた話を思い出した。
「カッセル方伯は、ベルリンで奇妙な土の力を使った男を、男爵へ取り立てたのだったな」
「はい。ラーグ・フォン・ハイリゲンローデと名乗る、元平民の男にございます」
「残土だったか?」
「そのように聞いております。ベルリンでは、大量の土を出してデンマーク軍の投石を防いだとか」
「くだらん」
私は鼻で笑った。
「投石器の石を防いだ程度で、何になる」
手元の銀のゴブレットを弄ぶ。
「いかに大量の土を出せようと、人間一人にできることには限界がある」
三十門の大砲。
別々の位置から。
別々の目標へ。
絶え間なく砲弾を叩き込む。
「空から降り注ぐ何十発もの砲弾を、一人で防ぎ続けられるものか」
「ごもっともにございます」
「圧倒的な火力の前では、個人の小細工など無力だ」
暖炉の炎が揺らめき、私の手元を赤く照らした。
長きにわたるヘッセンの分断。
カッセルへの憎悪。
積もり積もったものすべてを、この戦いで清算する。
ベルリンでの勝利に沸き、自らの足元にある弱点にも気づいていない愚かな方伯へ、真の恐怖を味わわせてやるのだ。
「全軍の編成を急がせろ」
「はっ」
「武器が届き次第、メンヒェベルクとヴァインベルクを奪取するための演習を開始する」
「承知いたしました」
密偵は深く頭を下げた。
「すべては、ダルムシュタットの栄光のために」
そして、夜の闇へ溶けるように執務室から姿を消した。
一人残された私は、ゴブレットを高く掲げた。
血のように赤いワインが、炎の明かりを受けて揺れる。
そのまま一息に飲み干した。
芳醇な香りと熱が喉を通り、胸の奥まで染み渡る。
「待っていろ、カッセル」
私は窓の外へ目を向けた。
遠い北の空は、深い闇に沈んでいる。
「ヘッセンの真の主は、この私だ」
完璧な情報。
完璧な戦術。
そして、圧倒的な武力。
もはや私の計画に、一片の死角も存在しない。
この戦いは。
始まる前から、すでに勝敗が決しているのだ。
◇◆◇
――しかし。
この時のヘッセン=ダルムシュタット方伯は、一つだけ致命的な見落としをしていた。
カッセル攻略の要。
そして最大の弱点であると考えていた、二つの高地。
メンヒェベルクとヴァインベルク。
そのすぐ近くにある、一見何の変哲もない小さな農村。
ハイリゲンローデ。
そこで今。
一人の元建設作業員が、せっせと石を集めていた。
そして同時に。
その男の頭の中では、分厚い土塁と鋭く張り出した稜堡が、着々と形を成しつつあった。
幾何学模様を描く、巨大な星形要塞。
ダルムシュタット方伯は、まだ知らない。
自らが勝利の鍵と信じている高地のすぐそばで。
砲撃戦そのものをひっくり返しかねない要塞が、生まれようとしていることを。
彼らがその恐るべき姿を知るのは。
冷たい銃口と砲門を向けた、まさにその時のことである。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




