第2話 好きと言って、世界を壊す
「……聞け」
喉が焼けるみたいに熱かった。
ずっと飲み込んできた言葉が、ようやくそこまで来ている。
言えば終わる。
神託はそう告げた。
――それでも。
「俺は、おまえが好きだ」
その瞬間、世界のどこかが“切れた”。
リリアの目が、わずかに見開かれる。
「世界より、おまえが大事だ」
腕の中のリリアは、もうほとんど動かない。
白い法衣を濡らす血が、ゆっくりと広がっていく。
背後で誰かが叫び、何かが崩れる音がした。
――どうでもいい。
俺の世界は、最初からこの腕の中にあった。
「アレン……」
かすれた声。
それだけで、十分だった。
俺は、リリアを抱き寄せる。
「……悪い」
理由なんて、どうでもいい。
――戻らない。
その言葉が落ちた瞬間、世界が光に沈んだ。
轟音とともに、俺の足元に巨大な魔法陣が開く。
白銀の紋様が幾重にも重なり、夜に呑まれかけていた王都を一瞬で塗り潰した。
「勇者の紋章……!」
「覚醒したのか……!」
誰かの叫びが遠くで響く。
空が裂けるみたいに明るくなった。
黒い瘴気が悲鳴を上げるように後ずさり、上空の上級魔族が翼を焼かれてのたうつ。
俺はリリアをそっと地面に横たえ、立ち上がった。
体の奥を、力が駆けた。
剣を握る。
ただそれだけで、刀身に白い光が奔った。
上級魔族が咆哮し、漆黒の炎を吐き出す。
だがもう、怖くなかった。
踏み込む。
世界が遅くなる。
全部、見えた。
一閃。
その光は、夜を“なかったことにした”。
上級魔族の巨体が真っ二つに裂け、その向こうで渦巻いていた瘴気までまとめて消し飛ぶ。
遅れて轟音が響き、空に残っていた黒い裂け目が砕けるように崩れていった。
闇が、剥がれ落ちていく。
救えた。
そう思った瞬間だった。
不意に、視界が大きく揺れた。
「……っ」
膝が落ちる。
剣を支えにしなければ、そのまま倒れていた。
全身から力が抜けていく。
何かが、音を立てて剥がれ落ちていく。
頭の奥が白くなる。
何かが、零れ落ちていく。
「アレン!」
誰かが俺の名を呼ぶ。
その声だけが、妙に近かった。
振り向く。
そこには、泣きそうな顔のリリアがいた。
さっきまで死にかけていたはずなのに、胸元の傷は光に包まれ、ほとんど塞がっている。
助かった。
――なのに、怖い。
この顔を、俺は知っている。
知っているはずなのに、何かが剥がれていく。
「アレン、しっかりして。ねえ、見て、私……」
リリアが駆け寄ってくる。
伸ばされた手が、ひどく大切なものに見えた。
なのに、その“何が大切だったのか”が、もうわからない。
何かが、砕けた。
春の石畳。
一緒に食べた弁当。
笑い声。
泣き顔。
夕暮れの回廊。
言えなかった言葉。
全部が光の中に溶けていく。
やめろ、と叫びたかった。
持っていくな、と縋りたかった。
けれど、その相手さえわからないまま、意識は白く途切れた。
◆
目を覚ました時、天井は見慣れないほど白かった。
薬草の匂いがする。
神殿の治療室だと気づくまで、少し時間がかかった。
「気がついたか」
そばにいた老神官が、安堵したように息を吐く。
身体は重かったが、傷はない。
窓の外には朝の光が差していて、昨日の地獄みたいな戦いが嘘のように静かだった。
「……魔王軍は」
「退いた。おまえが討った上級魔族を境に、瘴気は急速に薄れた。王都は救われたよ」
その言葉に、胸のどこかが小さく緩む。
よかった、と思った。
それはたぶん本心だった。
けれど同時に、妙な違和感があった。
何かが足りない。
ひどく大事なものを置き忘れてきた気がするのに、それが何なのか思い出せない。
「……俺は、どうして倒れたんですか」
自分でも驚くほど、声は平坦だった。
老神官は少し黙り込んだ。
言うべきか迷っているような顔だった。
「勇者の覚醒には、代償があった」
「代償?」
「神託は、嘘ではなかったということだ」
その意味が、すぐにはわからない。
「……世界は終わってない」
「物理の世界はな」
老神官は静かに目を伏せた。
「神が告げた“世界”とは、おそらく勇者にとっての世界だ。おまえが最も大切にしていたもの。おまえの心の中心にあったもの。その記憶が、代償として失われた」
言葉が、胸の中に落ちる。
失われた。
何を。
問い返そうとして、なぜか声が出なかった。
喉の奥に、引っかかるものがある。
形にはならないのに、ひどく痛い。
「……そう、ですか」
それしか言えなかった。
老神官は、何かを悔いるみたいに目を閉じる。
「神託は“終わる”としか告げなかった。誰も、こういう意味だとは思わなかったのだ」
しばらく沈黙が落ちた。
その時、扉の向こうで小さな物音がした。
老神官が振り返り、やがて静かに立ち上がる。
「入るといい」
扉が、ゆっくり開く。
入ってきたのは、白い法衣をまとった少女だった。
淡い金色の髪。
少しだけ赤く腫れた目元。
なのに、立ち姿だけは不思議なくらいまっすぐで、きれいだった。
その姿を見た瞬間、胸がざわつく。
知らないはずなのに、知っている気がした。
大切だった気がした。
でも、思い出せない。
老神官は何も言わず、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
しばらく、少女は何も言わなかった。
ただ、泣きそうなのを必死に堪えるみたいな顔で俺を見ていた。
俺はその沈黙に耐えきれず、口を開く。
「……君は」
少女の肩がわずかに揺れる。
「誰、ですか」
一瞬だけ、時間が止まったように思えた。
少女は目を見開き、それから唇を噛む。
たぶん、笑おうとしたのだと思う。
けれど、うまくいかなかったらしい。
長い沈黙のあと、彼女は小さく息を吐いた。
「……ただの、通りすがりです」
そう言った声は、驚くほど穏やかだった。
けれど、その穏やかさの下で何かが壊れそうになっていることくらい、さすがにわかった。
俺は妙に落ち着かなくなって、視線を逸らす。
「そう、ですか」
「はい」
それきり、会話は続かなかった。
なのに、彼女が部屋を出ていこうとした瞬間、胸の奥がひどくざわついた。
行かせてはいけない気がした。
理由なんてない。
ないはずなのに、焦りだけが先に立つ。
「待って」
思わず呼び止めていた。
少女が足を止める。
「どこかで、会ったこと……ありますか」
自分でも馬鹿みたいな問いだと思った。
記憶をなくした直後に言う台詞じゃない。
けれど、聞かずにはいられなかった。
背を向けたまま、少女は少しだけ肩を震わせた。
泣いているのかもしれないと思ったが、確かめる勇気はなかった。
やがて彼女はゆっくり振り返る。
目元はやっぱり赤かった。
でも今度は、ちゃんと笑っていた。
泣きそうなくらい、やさしい笑顔だった。
「……これから、会うのかもしれません」
「え?」
一歩、彼女がこちらへ戻ってくる。
それはためらいのある足取りだったけれど、それでも止まらなかった。
まるで何度傷ついても、最後には前へ進むと決めた人の歩き方だった。
ベッドのそばまで来て、彼女は俺を見つめる。
まっすぐで、少しだけ震えていて、それでも強い目だった。
「ねえ」
小さく息を吸って、それから彼女は言った。
「初めまして。……私、あなたのこと、好きになってもいい?」
その言葉に、なぜだか胸がひどく熱くなった。
理由はわからない。
なのに、どうしようもなく嬉しい気がした。
窓の外で、朝の光が揺れている。
夜はもう終わっていた。
壊れたはずの世界の、その先で。
俺たちはたぶん、もう一度出会う。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
世界は救われました。
けれど――彼にとっての“世界”は、確かに終わっています。
それでも、物語はここで一区切りです。
壊れたものも、残ったものも、
すべて抱えたまま――
二人は、もう一度出会います。




