第1話 世界を守るために、彼女を嫌う
震える唇で、彼女は言った。
「どうして……そんなに優しいのに、私のこと、嫌いなの……?」
胸が裂けそうだった。
それでも俺は笑った。
最低な男みたいに、冷たく。
「嫌いだからだよ」
リリアの瞳が、はっきりと傷つく。
――嘘だ。
言えば終わる。
俺がこの気持ちを口にした瞬間、この世界は滅ぶ。
だから俺は、彼女に嫌われるしかない。
すべては、数カ月前に神託が下った日から始まった。
◆
その日、王都エルセリアは妙に静かだった。
石畳を撫でる風だけが、やけに静かだった。
魔王軍との決戦が近いせいだ。勇者候補と聖女候補に神託が下る日だと、街中が知っていた。
「アレン、歩くの速い」
背後から飛んできた声に、俺は足を止めずに振り返った。
案の定、リリアが小走りで追いかけてきていた。白い法衣の裾を押さえながら、少しだけ頬を膨らませている。
「置いていく気?」
「置いていかれるような歩き方してるおまえが悪い」
「ひどい」
口では文句を言いながら、リリアはすぐ俺の隣へ並んだ。
陽の光を受けて、淡い金色の髪が揺れる。笑うと少しだけ下がる目尻も、昔から変わらない。見慣れているはずなのに、今日はやけに目に入った。
「緊張してる?」
「別に」
「私はちょっとしてる」
「見えないな」
「アレンがいるから」
そう言って、何でもないことみたいに笑う。
昔からこいつはそうだった。こっちが勝手に意識して言葉に詰まるようなことを、平然と口にする。
幼い頃からずっと一緒だった。
泣き虫のくせに変なところで頑固で、怖がりのくせに誰かのためには平気で無茶をする。
認めないふりをしてきただけで、気持ちはとっくに決まっていたのだと思う。
「はい、これ」
差し出された包みを見下ろす。
「いらない」
「あとで食べるだけでもいいから」
そう言って笑う。
結局、俺はそれを受け取った。
それだけで、リリアは少し嬉しそうな顔をする。
その時の俺はまだ、この当たり前が壊れるなんて思っていなかった。
◆
神殿の大聖堂は、息が詰まるほど静まり返っていた。
高い天井。白い石柱。色硝子を通った光が、祭壇の前にひざまずく俺たちの肩を淡く照らしている。
勇者候補である俺と、聖女候補であるリリア。
祭壇の上には大神官が立ち、その周囲を王や騎士団長、重臣たちが固い顔で囲んでいた。
やがて、大神官が神託を告げる。
「神は、こう仰せになられました」
大聖堂の空気が張り詰める。
「勇者が愛を誓う時、この世界は終わる」
一瞬、意味がわからなかった。
「……は?」
思わず声が漏れる。
ざわめきが広がった。
王が大神官を見る。神官たちが、文言の意味を確かめるように顔を見合わせる。
「愛を誓う、とは婚姻の誓いか」
「あるいは、真実の告白そのものかもしれません」
「ですが、神託の文言は以上です」
隣で、リリアが小さく首を傾げた。
「ええと……アレンが誰かに好きって言ったら、世界が終わるってこと?」
「そんな軽く言うな」
「でも、まだ細かい意味はわからないんでしょ?」
「神託は外れたことがない」
言った瞬間、自分の声がひどく硬かったことに気づく。
俺が誰かに愛を告げた時、この世界は終わる。
そして俺には、そんな相手がもういる。
隣にいる、この幼馴染だけだ。
「アレン?」
リリアが心配そうに覗き込んでくる。
その顔を見た瞬間、反射的に一歩引いていた。
「……近い」
「え?」
「少し離れろ」
リリアがきょとんとする。
俺はそれ以上、何も言えなかった。
この日から、俺は少しずつ変わっていった。
◆
最初は、少しだけだった。
話す回数を減らした。
ふたりきりになるのを避けた。
「最近、避けてる?」
夕暮れの回廊で、そう聞かれた。
「別に」
「じゃあ、こっち見て言って」
見られなかった。
そのまま、横を通り過ぎる。
背中に刺さる視線が痛かった。
◆
それでも、見捨てることだけはできなかった。
夜の神殿裏で使い魔に襲われかけた時も、誰にも見られないように先回りして斬った。
遠征訓練で暴走した魔獣が迫った時も、気づけば一番先に体が動いていた。
全部、見えないところで。
全部、気づかれないように。
なのに、リリアは時々妙に鋭かった。
「この前、助けてくれたの、アレンでしょ」
中庭の噴水の前で、そう聞かれた時もそうだ。
「知らない」
「でも、あの時と同じ傷がある」
視線が俺の腕に落ちる。訓練でついたことにしていた傷だ。
「訓練でついた」
「嘘。アレン、嘘つく時、少しだけ言うのが早くなる」
そんなことまで見ているのかと、胸が詰まる。
嬉しいと思ってしまった自分が、何よりまずかった。
「聖女候補が死んだら困るだけだ」
平坦な声で言う。
「私だからじゃなくて?」
「そうだ」
即答した。
リリアは少し俯いて、それから笑おうとして、うまく笑えずに視線を落とした。
「……そっか」
その一言が、妙に長く胸に残った。
◆
数カ月のあいだに、リリアの笑顔は少しずつ減っていった。
前みたいに無邪気にじゃれついてくることは少なくなり、話しかけてくる回数も減った。
それでも完全には離れない。
なにかを確かめるみたいに、時々、ひどくまっすぐな目で俺を見る。
そのたびに思う。
もうやめろ。
これ以上近づくな。
それ以上好きになられたら、本当に戻れなくなる。
だが、そんな願いとは裏腹に、戻れなくなっていたのは俺のほうだった。
神託が下ってから数カ月。
リリアを傷つける言葉は増えたのに、好きだという気持ちは薄れるどころか、日ごとにはっきりしていった。
嫌えば嫌うほど、守ってしまう。
突き放すほど、失いたくなくなる。
どうしようもなく、馬鹿だった。
◆
その日の夕方だった。
訓練を終えて兵舎へ戻る途中、中庭の回廊でリリアに呼び止められた。
「アレン」
振り返ると、リリアはひとりで立っていた。
白い法衣の袖を握る指先が、少しだけ強ばっている。
嫌な予感がした。
「何だよ」
「少しだけ、話せる?」
「忙しい」
「じゃあ、本当に少しだけでいい」
いつものように笑ってごまかしてはいなかった。
逃げないで、と目だけで言われた気がした。
俺は息を吐く。
「……早くしろ」
そう言うと、リリアは小さくうなずいた。
「ずっと、聞きたかったの」
「何を」
「どうして急に、こんなふうになったの」
答えられない。
神託のことは王命で伏せられていた。
勇者の恋ひとつで世界が終わるかもしれないなど、軽々しく広められる話ではない。
だから言えない。
言えないから、嘘をつくしかない。
「別に急じゃない」
「急だったよ」
リリアの声が少し震える。
「前は違った。ちゃんと笑ってくれたし、怒っても最後には許してくれた。危ない時はいつも助けてくれたし、私が泣いてたら放っておけない人だった」
「……もう前みたいにはしない」
言いながら、自分の喉がひどく固くなっているのがわかった。
リリアが息を呑む。
「どうして」
「変わったからだ」
「そんな言い方、理由になってない」
「理由なんてなくても、人は変わるだろ」
「アレンは、そんなふうに変わる人じゃない」
そう言い切られて、胸が痛んだ。
リリアは一歩だけ近づいた。
「……でも、今でも助けてくれる」
息が詰まる。
「この前も、その前も、私が危ない時は、いつもアレンがいた。たまたまじゃないって、もうわかる」
「気のせいだ」
「気のせいじゃない」
きっぱりと言われ、言葉に詰まる。
夕暮れの光が回廊を赤く染めていた。
その中で、リリアだけが妙に鮮明に見える。
「ねえ、アレン。私、ずっと考えてた」
その声は、ひどく静かだった。
「嫌われたなら、諦めなきゃって何度も思った。でも、どうしてもそう思えなかった」
「……やめろ」
「だって、優しいから」
「やめろって言ってる」
「そんなに冷たくするのに、肝心なところでは絶対に見捨てないから」
震える唇で、彼女は言った。
「どうして……そんなに優しいのに、私のこと、嫌いなの……?」
胸が裂けそうだった。
それでも俺は笑った。
最低な男みたいに、冷たく。
「嫌いだからだよ」
リリアの瞳が、はっきりと傷つく。
その顔を見た瞬間、吐き気がした。
――嘘だ。
本当は、世界で一番好きだ。
けれど、言ったら終わる。
俺がこの気持ちを口にした瞬間、この世界は滅ぶ。
世界を守るために。
俺のたった一つの世界を、壊さないために。
だが、リリアはそれでも視線を逸らさなかった。
「……私、あなたのこと」
心臓が止まりそうになる。
「言うな」
思わず声が強くなる。
リリアの肩がびくりと震えた。
「その先は言うな」
「どうして」
「聞きたくない」
「アレン」
「気持ち悪いんだよ」
言ってしまった瞬間、世界が静まり返った気がした。
自分でも信じられないくらい、ひどい言葉だった。
リリアはしばらく何も言わなかった。
やがて小さく息を呑み、痛みを堪えるみたいに笑おうとして、うまくできずに俯いた。
「……そっか」
声がかすれていた。
「ごめん。困らせたかったわけじゃないの」
そう言って背を向ける。
呼び止められなかった。
伸ばしかけた手を、無理やり握り込む。
今さら何を言う。
全部嘘だと? 本当は好きだと?
そんなことをしたら終わる。
そう自分に言い聞かせた、その直後だった。
王都に警鐘が響き渡った。
◆
低く重い鐘の音が、何度も空気を震わせる。
「魔王軍襲撃――!」
「西門が破られた!」
「飛行種が神殿へ向かっているぞ!」
怒号と悲鳴が一気に広がった。
俺は反射的に剣を抜き、神殿の方へ走る。
空は黒く濁り、瘴気が渦を巻きながら夕焼けを呑み込んでいく。
決戦はまだ先のはずだった。
それなのに魔王軍は、こちらの備えを嘲笑うように王都へなだれ込んできていた。
嫌な予感がする。
リリアは聖女候補だ。本来なら真っ先に避難させられるはずだが、あいつのことだ、誰かを庇って無茶をしているかもしれない。
神殿前広場へ飛び込んだ瞬間、その予感は最悪の形で当たった。
「リリア!」
広場の中央、避難の遅れた神官たちを背に、リリアがひとりで結界を張っていた。
白い光の壁が幾重にも重なり、降り注ぐ黒い火球をかろうじて防いでいる。
だが、長く持つはずがない。
「下がれ!」
叫んでも、リリアは振り返らない。
「まだ中に人が――」
その言葉を最後まで聞く前に、上空の瘴気が大きくうねった。
そこから現れたのは、翼を持つ上級魔族だった。
黒い爪が空を裂き、次の瞬間、結界ごと貫くように漆黒の炎が落ちる。
考えるより先に体が動いていた。
剣で軌道を逸らす。
だが完全には防ぎきれない。散った炎の一部が、リリアの胸元を深く裂いた。
彼女の身体がぐらりと揺れる。
「リリア!」
駆け寄って抱きとめた時には、白い法衣が赤く染まり始めていた。
「おい、しっかりしろ」
返事はない。呼吸が浅い。
嫌な汗が一気に噴き出した。
周囲の神官たちが駆け寄り、治癒魔法を重ねる。
だが、傷口に触れた光は濁って弾けた。
「だめです、呪詛が深い……!」
「通常の治癒では間に合いません!」
「じゃあどうすればいい!」
怒鳴る俺に、老神官が青ざめた顔で答えた。
「勇者の覚醒が必要です」
「覚醒……?」
「神託に記された条件があります。勇者が、最も大切なものへ本心から愛を告げた時、その力は開かれる」
一瞬、言葉の意味がわからなかった。
いや、わかりたくなかった。
愛を告げる。
本心から。
最も大切なものへ。
そして、それは同時に神託の条件でもある。
勇者が愛を誓う時、この世界は終わる。
腕の中で、リリアのまぶたがかすかに震えた。
「……また、助けてくれたんだね」
消えそうな声だった。
その一言だけで、胸の奥がぐしゃぐしゃになる。
嫌いだと突き放しても、結局こいつは気づいてしまう。
俺が、本当はずっとおまえを守ってきたことに。
「しゃべるな」
「アレン……」
名前を呼ばれる。
それだけで、駄目だった。
救いたい。
なのに、言えば終わるかもしれない。
世界が。
この腕の中にあるぬくもりの、その先が。
——それでも。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
彼が「嫌い」と言った理由は、
決して感情の問題ではありません。
次話で、その“選択の代償”が明らかになります。
このまま続けて読んでいただけると嬉しいです。




