番外編 ただの、通りすがりです
アレンが「好きだ」と言った瞬間、世界が静かになった気がした。
痛みも、怖さも、全部遠くなって、ただその声だけが胸の奥に落ちてくる。
ずっと聞きたかった言葉だった。
たぶん、もう聞けないと思っていた言葉だった。
「世界より、おまえが大事だ」
その一言で、泣きたくなった。
嬉しかった。どうしようもないくらい、嬉しかった。
なのに次の瞬間、崩れたのは私じゃなくてアレンのほうだった。
駆け寄った時には、もう遅かった。
私を見ているのに、その目から何かがこぼれ落ちていくのがわかった。
嫌な予感がした。
お願いだから、それだけはやめてと、誰に祈ればいいのかもわからないまま思った。
けれど朝になって聞かされたのは、もっと残酷な話だった。
神託は嘘じゃなかったこと。
壊れるのはこの世界そのものじゃなく、勇者にとっての“世界”だったこと。
アレンにとっての世界。
それが何だったのか、聞かなくてもわかった。
だってあの人は、最後にはっきり言ったから。
世界より、私が大事だと。
だから扉の前に立った時、手が震えた。
会いたかった。無事な顔を見たかった。
でも、もう覚えていないのだとしたら、私はどんな顔をすればいいのかわからなかった。
部屋に入ると、アレンはちゃんと生きていた。
そのことが嬉しくて、泣きそうになる。
けれど彼は私を見るなり、不思議そうに目を細めた。
「……君は」
その一言で、もう全部わかった。
「誰、ですか」
胸の奥が、音もなく冷えていく。
昨日、好きだと言ってくれた人が、今は私を知らない。
泣きたかった。縋りついて、忘れないでと言いたかった。
でも、そんなことをしたら、この人をもっと苦しめる気がした。
だから私は笑った。
きっと、少し歪んでいたと思う。
「……ただの、通りすがりです」
本当は違う。
ずっと隣にいた。好きで、好きで、やっと届いた相手だ。
それでも、今はそれでよかった。
部屋を出ようとした時、後ろから声がした。
「待って」
心臓が跳ねる。
「どこかで、会ったこと……ありますか」
その問いに、少しだけ救われた気がした。
全部消えたわけじゃないのかもしれない。思い出せなくても、何かは残っているのかもしれない。
私は振り返る。
今度はちゃんと笑いたかった。
「……これから、会うのかもしれません」
それから、もう一歩だけ前に出る。
怖くないわけじゃない。
また傷つくかもしれない。もう二度と届かないかもしれない。
それでもいいと思えた。
「初めまして。……私、あなたのこと、好きになってもいい?」
長い夜は、もう終わっていた。
忘れてしまっても、失くしてしまっても、きっとまた始められる。
そう思えたから、私は今度こそ、ちゃんと笑えた。




