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捨てられ第三王子は、信頼を取り戻したいだけなのに、崩壊寸前の辺境領と婚約破棄寸前の令嬢まで任されました  作者: 玖城イサ
第一章

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第98話 作られた視察

 


 翌朝、広場にはまだ夜の冷えが残っていた。


 鍋場の火はもう入っている。

 空は白く、吐く息も白い。

 木の椀を抱えた女が列の最後尾へ並び、その後ろへ老人が静かに続いた。


 監査使一行が来る前から、もう一日の仕事は始まっている。


 それがフェルドの冬だった。


 領主館の前では、旧役人派の一人が、わざとらしい笑顔で待っていた。


「殿下、視察順ですが」

「本日は市場通りが最も整っております。昨夜の雪も払わせましたので、まずは――」


「鍋場からだ」

 レオンは歩きながら言った。


 男は一瞬だけ言葉を失った。

 そのまま食い下がる。


「ですが、あちらは救済用の臨時区画です」

「領地全体の代表と言うには、あまりに一時的で――」


「一時的だから見る」

 とレオンは返した。

「今、止まると困る場所なんだからな」


 フィアナが横から冷たく付け足す。


「“整っている場所だけが代表”という理屈は、これまでのフェルドをここまで弱らせた理屈でもあります」

「もう採りません」


 旧役人派の男は口を閉じた。

 だが顔だけははっきり不満だった。


 アルノーは後ろでそのやり取りを聞きながら、少しだけ首を傾けた。


「殿下は、ずいぶんと厳しい場所を先に出されるのですね」


「楽な場所から見ても、後で寒くなるだけだ」

 レオンは前を向いたまま答える。

「今のフェルドは、見た目で安心できる領地じゃない」


 広場へ入ると、監査使の一団はそこで初めて歩みを少し緩めた。


 鍋場は綺麗ではない。


 風よけ板は粗い。

 雪は端にまだ残っている。

 列も真っ直ぐではなく、肩を寄せる者もいる。


 だが、止まってはいなかった。


 木札を受ける手。

 鍋をかき回す手。

 器を返す箱。

 列を分ける若い兵。

 火の減りを見て薪を運ぶ小僧。


 混乱の匂いは薄い。

 貧しさはある。

 でも、順番がある。


 マルタが鍋の脇に立っていた。


「子ども連れ、こっち」

「年寄りは火の近い方へ」

「器の欠けはその箱だよ。黙って持って帰るな」


 声は大きくない。

 けれど通る。


 監査使の年配文官が、列を見て眉をひそめた。


「領都の中に、ここまで困窮者が」


「いますよ」

 レオンはそのまま言った。

「村だけ見て済む段階は、もう越えてる」


 アルノーは、列の前方に立つ女の服へ目を留めた。

 布は粗い。

 だがその少し後ろに、まだ仕立てのいい上着を着た中年男もいる。


「……身分の違う者が混ざっていますね」


「寒さはそこをあまり選ばない」

 とフィアナが答えた。

「ですから、こちらも鍋ではあまり選びません」


 その返しを、監査使の若い書記官が書き留めた。


 そこで、列の中の老人が咳をした。

 マルタがすぐに若い見習いへ顎を振る。


「先に椀」

「座らせな」


 兵でも文官でもない、ただの見習いの少女が椀を持って走る。

 ぎこちない。

 でも迷いはない。


 年配文官が小声で言う。


「随分と雑多な運営ですな」


「足りないので」

 マルタがそのまま聞こえる声で返した。

「でも、前よりは止まりません」


 監査使の側が少しだけ黙る。


 次に向かったのは、名簿の聞き取り小屋だった。


 暖かくはない。

 紙の匂いと、湿った外套の匂いが混じる狭い小屋だ。


 中ではヘルマンと若い書記たちが、旧名簿と新しい聞き取り表を突き合わせていた。


「死んだ者が残って、生きてる子が漏れてる」

 ヘルマンは紙をめくりながら言う。

「このまま徴税も配給もやっておったのが前の話です」


「今は?」

 とアルノー。


「今も途中ですな」

 老人は鼻を鳴らした。

「ですが、途中だからこそ、どこが抜けてるか分かる」


 レオンは机の端の束を指した。


「新表は、抜けを抜けだと分かる形にした」

「前は、整ってるように見せる方が先だった」

「だから間違った」


 若い書記官がそこでも顔を上げた。

 整って見せる。

 その言葉が、少し刺さったようだった。


 外へ出ると、北門詰所へ向かう道にはまだ雪が残っている。


 監査使の年配文官は、靴に付く泥を嫌そうに見た。

 だがレオンは歩みを止めなかった。


 北門では、ドルクが記録板を広げて待っていた。


「こっちが今月」

「こっちが先月末までの襲撃報告だ」


 板には、簡単な印で記録が並んでいる。


 前は多い。

 今もゼロではない。

 でも、減り方は一目で分かる。


「囮を使って密輸路を切りました」

 フィアナが説明する。

「門、旧関所道、山の受け場。この三つの線を潰したのが大きいです」


「旧関所責任者の処分と連動しております」

 セリスが補う。

「通行札の再利用も、そこでかなり止まりました」


 アルノーは板を見た。

 その目はまだ完全には信じていない。

 でも最初の時の“失敗を探す目”とは、少し違っていた。


 最後に第三倉を見せた時、年配文官が露骨に言った。


「ずいぶんと苦しい場所ばかりお見せになる」

「もう少し、成果の出た区画を回ってもよろしいのでは」


「今見ているのが成果だ」

 レオンは答えた。

「苦しい場所が、前より少しでも止まらなくなった」

「それが今のフェルドの成果だよ」


 年配文官は口を閉じた。

 答えづらかったのだろう。


 倉の前で、監査使の一行はしばらく無言になった。


 帳簿外だった古い搬出痕。

 今は札が付き、管理板が立ち、誰が鍵を持つかまで明示されている。


 立派ではない。

 でも曖昧ではない。


 その曖昧でないことが、ここでは何より大きかった。


 帰り際、広場の端で、若い書記官がふと足を止めた。


 鍋場の列から離れたところに、一人の老女が座っていた。

 フィアナが腰を落として、火の近い場所へ移すよう見習いへ指示している。


 冷たい悪女。

 協調性のない令嬢。


 王都で聞いていた言葉が、その若い書記官の中で一瞬だけ浮かび、そこでうまく噛み合わなくなった。


 厳しいのは確かだ。

 甘くはない。

 だが、見捨てる側の厳しさではなかった。


 それをどう言葉にすればいいのか、彼にはまだ分からなかった。


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