第95話 政治の書式
夜、実務室の人が引いてから、三人で机を囲んだ。
暖炉の火は昼より低い。
外はまた冷え始めている。
窓の向こうで見張りの足音が一度だけ過ぎた。
机の上には、昨夜の封書。
その横に、関連しそうな古い婚約覚え書き、辺境伯家宛ての過去の照会文、王都便の写しが並んでいる。
セリスは最初の一枚を開き、指先で段落を分けた。
「まず、表の顔は婚約整理です」
「ここは見たままですね」
「将来の負担を避ける。情勢に即す。どちらにも瑕疵はない。上品に切る時の定型です」
「上品に切る、か」
とレオン。
「王都ではよく使います」
セリスは平然としている。
「刺す側が手を汚したように見えませんので」
フィアナは黙って聞いていた。
顔色は変わらない。
だが、昨日よりわずかに目の焦点が鋭い。
ただ受けるだけではなく、分析の席へ戻ってきている。
セリスは二枚目へ移る。
「問題はこちらです」
「“今後の諸席におけるご配慮も、現状相応に改められる”」
「一見すると曖昧ですが、曖昧だからこそ広く効きます」
「具体的には」
とレオン。
「婚約調整の席から外す」
「王都での紹介順を落とす」
「補給や照会の窓口で、辺境伯家を一段下げて扱う」
「社交だけではありません。実務にも薄く響きます」
レオンは眉を寄せた。
「婚約一件で、そこまでやるのか」
「婚約一件ではないからです」
とセリス。
「王都にとって辺境伯家の縁組は、家同士の話であると同時に、北方をどこへ繋いでおくかの話でもあります」
フィアナがそこで口を開いた。
「先方の家へ嫁げば、フェルドは王都の有力筋へぶら下がる形になります」
「逆に切れれば、王都での後ろ盾はさらに薄くなる」
「それだけです」
「それだけ、で済ませるなよ」
レオンは思わず言う。
「済ませてはいません」
フィアナは静かに返した。
「ただ、意味は最初から分かっていました」
セリスが別紙を差し出す。
「こちら、昨年の照会文です」
「婚約調整の席と、補給局の照会日が近い」
「さらに財務院筋の追加拠出打診も重なっている」
「全部、同じ時期か」
「はい」
セリスは頷いた。
「王都は線を一本で引きません」
「社交、婚約、財務、補給。それぞれ別件に見せて、全部同じ方向へ押します」
辺境伯家を弱らせる方向へ。
レオンは書状を見下ろした。
これ自体は一通の紙だ。
でも本体はその外にある。
フィアナの婚約話を整理する。
その名目で、ベルクライン家を“王都で支える価値の薄い家”に見せる。
そうなれば今後の照会でも、補給でも、信用の出し方が変わる。
ただの失恋話ではない。
領地を削る政治だ。
「しかも今の時期です」
セリスは続ける。
「冬の炊き出し、名簿再編、不正徴税の洗い直し」
「こちらが少しずつ立て直し始めた時に、家格と窓口の扱いを落とす」
「たいへんよくできています」
「立て直しの足を引くには、十分か」
とレオン。
「ええ」
セリスは即答した。
「フェルド領を直接叩くには、まだ材料が弱い」
「ですから、まずベルクライン家を“切ってもよい家”にする」
「その後なら、監査でも照会でも、話を乗せやすくなります」
監査。
その単語に、レオンの目が止まった。
「待て」
「今、監査って言ったか」
セリスは一拍だけ黙る。
それから、少しだけ視線を細めた。
「ええ。可能性の話ですが」
「婚約整理と家格調整だけで終えるには、この書状は少し急ぎすぎています」
「何か次の手を前提にしていると見る方が自然です」
「王都から人が来る?」
「あり得ます」
「むしろ、異議が出ることを見越しているなら、その後の“確認”まで織り込んでいるはずです」
フィアナもそこへ視線を落とした。
「……監査使」
小さな声だった。
だが、現実味があった。
婚約整理で家の格を削る。
異議が出たら、再建状況の確認を名目に人を寄越す。
最初から失敗を見に来るなら、悪評の続きをいくらでも積める。
レオンは椅子へ深くもたれずに考えた。
前世でもあった。
先に評判を落とす。
次に査定を入れる。
査定結果は、落ちた評判を前提に書かれる。
順番を作った側が勝つやり方だ。
「なるほどな」
と彼は言った。
「婚約の整理文書じゃない」
「辺境伯家を削るための、入口の紙か」
「はい」
セリスは短く答えた。
「だから、受け方を間違えると後ろまで響きます」
フィアナはしばらく黙っていた。
やがて、静かに言う。
「でしたら、なおさら私個人の感情で止めてはいけません」
「異議を出すかどうかも、領地の話として決めるべきです」
レオンはその言葉を待っていた。
「そうだ」
彼は頷く。
「だから異議を出す」
フィアナが顔を上げる。
「殿下」
「私情で怒るんじゃない」
レオンは書状を指で叩いた。
「フェルド領の再建に対する妨害として返す」
「婚約整理そのものじゃなく、その時期と、付け足された扱いの落とし方に異議を出す」
セリスの目が、少しだけ鋭くなる。
「……それを王都へ返すと、“従順な三男”の札は外れますよ」
「最初から要らない」
「要らない札ほど、外した時に面倒です」
「知ってる」
とレオンは言った。
「でも、ここで黙る方が後で高くつく」
暖炉が小さく鳴る。
しばらくして、フィアナが低く言った。
「では、文を作りましょう」
「感情でなく、損失と現状で」
その声音は、昨日までの“受けます”よりずっと強かった。
ようやく同じ机の上へ戻ってきた。
そんな感じがした。




