第94話 淡々とした横顔
翌朝、フィアナは何事もなかったように働いていた。
実務室へ入った時、もう机の上には聞き取り表が並び、旧名簿との照合も始まっている。
暖炉の前ではヘルマンが古い控え札をめくり、窓際ではセリスが夜明けの便を整理していた。
そしてフィアナは、その真ん中でいつも通り紙を選っていた。
「北道手前の三戸、年齢の書き直しが要ります」
「領都滞在者欄と重なっていますので、午後の聞き取りで詰めましょう」
声も平常だ。
昨夜の書状なんて、最初から存在しなかったみたいに。
レオンは自分の席につきながら、その横顔を見た。
冷えて見える。
でも、それは怒っている顔じゃない。
もっと長い時間をかけて固めた、諦めに近い整い方だった。
マルタが器の控えを抱えて入ってくる。
「広場側の木椀、また減ってます」
「返ってくるのはいいんですが、欠けてるのも混じる」
「割れた分は別箱へ」
フィアナは即座に答えた。
「修理で使えないものは薪の計算からも外してください」
「了解です」
マルタは仕事の話だけして、すぐ出ていった。
その間も、フィアナは一度も書状のことへ触れない。
レオンはしばらく黙っていたが、やがて言った。
「君、寝たか」
フィアナの手が一瞬だけ止まる。
「それなりに」
「それなりって何時間だ」
「数えるほどではありません」
つまり、ほとんど寝ていない。
なのに顔へ出さない。
そういうところまで含めて、彼女は昔から一人で持ちすぎる。
セリスが紙束を閉じながら言う。
「私は一応、止めました」
「ですがフィアナ様は、書状が一通増えた程度で仕事を止める方ではありませんので」
「余計な言い方をしないで」
とフィアナ。
「事実です」
セリスは平然としている。
「問題は、止めないこと自体ではなく、止めないことで済ませようとなさる点です」
フィアナは返さなかった。
返さないのが、ほとんど肯定みたいだった。
昼前、聞き取りの切れ目で人が少し引いた頃、レオンは書状を持って小部屋へ入った。
少しして、フィアナも来る。
扉が閉まる。
暖炉は小さく、部屋も狭い。
昨夜と同じ場所だ。
「何でしょう」
とフィアナが言う。
「返書の話だ」
「でしたら昨夜申し上げた通りです」
彼女は机の向こうへ立ったまま答える。
「白紙整理で問題ありません」
「問題あるだろ」
「家の話としては、ありません」
フィアナは淡く言う。
「先方は王都の有力家です。こちらは疲弊した辺境です」
「父は病床で、私は悪評付き」
「切られる理由なら、もう十分揃っています」
それを自分で言う。
レオンは胸の奥が少し重くなった。
「平気なのか」
「平気、という言い方は正しくありません」
フィアナは少し考えてから言葉を継いだ。
「驚くほどのことではない、というだけです」
その答えが、また嫌だった。
驚かない。
期待しない。
だから傷が浅い。
それは強さに見える。
でも本当は、前もって切られる側へ自分を置いておかないと持たないだけだ。
フィアナは続ける。
「婚約が残っていても、領地は楽になりませんでした」
「むしろ王都側へ寄れという圧が増えるだけです」
「でしたら今ここで切れても、実害はそう変わりません」
「それは君個人の話だろ」
「個人だけの話でもありません」
彼女は首を振る。
「辺境伯家の格が少し落ちるだけです」
「今さら一つ増えても――」
そこで、レオンは口を挟んだ。
「今さらで片づけるな」
初めて、少し強い声が出た。
フィアナは目を上げる。
薄灰の瞳が、静かにこちらを見る。
「君はもう慣れてるのかもしれない」
とレオンは言った。
「でも俺はまだ慣れてない」
「正しく働いて、領地を支えてきた人間が、“今さら一つ増えるだけ”で切られるのは普通じゃない」
フィアナは何も言わない。
「それに」
レオンは書状を机へ置いた。
「昨夜のこれ、妙だ」
「婚約整理だけの紙なら、丁寧すぎる」
「何か別の線も混ざってる」
彼女の視線が、少しだけ動く。
「……私も、完全に私事とは思っていません」
「ですが、婚約の件を大きくすれば、逆に領地の仕事が止まります」
「だから止めない」
レオンは答えた。
「君だけで返さない」
「まずセリスに文を剥がさせる」
フィアナが眉を寄せる。
「剥がす?」
「上品な言い回しの皮を剥がす」
「昨日の感じだと、その方が正しいだろ」
ほんのわずかに。
本当にわずかだが、フィアナの口元が動いた。
笑いではない。
でも、否定しきれなかった時の顔に近い。
「……ひどい言い方です」
「事実だ」
「事実ですが」
それだけ言って、彼女は少しだけ視線を落とした。
昨夜のような硬さとは違う。
考え直している時の沈黙だった。
やがて彼女は低く言う。
「では、今日の夜に」
「名簿の聞き取りが一区切りついてから、三人で見ましょう」
「了解」
答えながら、レオンは少しだけ息を吐いた。
すぐに引かれなかっただけで十分だった。
今の彼女は、痛みを感じるより先に処理へ回す癖がついている。
だから止めるにも、まず順番がいる。
フィアナは扉へ向かいかけて、そこで一度だけ立ち止まった。
「殿下」
「何だ」
「昨日のあれを、どうでもよくないと仰ったでしょう」
「ああ」
彼女は振り向かないまま言う。
「……そう言われることに、まだ慣れていません」
それだけ残して、小部屋を出ていった。
残されたレオンはしばらく扉を見ていた。
慣れていない。
それはつまり、今までほとんど言われてこなかったということだ。
夕方になれば、書状の中身を剥がす時間が来る。
そこで何が出るか。
たぶん、婚約の話だけでは終わらない。




