第92話 誓い
「今さら評判なんて、どうでもいいんです」
フィアナはそう言って、机の上の紙へ視線を落とした。
「領地が残るなら、それで十分です」
「王都で何と呼ばれようと、もう――」
そこで言葉が少し止まる。
止まってから、彼女は淡く言い直した。
「もう、慣れていますから」
慣れている。
その一言が、レオンにはいちばん嫌だった。
前世でも見てきた。
踏まれる側ほど、あるところから「慣れている」と言う。
本当は慣れてなんかいないのに、そこを否定すると仕事も生活も続かなくなるから、そう言うしかなくなる。
レオンは小さく息を吐いた。
「どうでもよくない」
フィアナが顔を上げる。
「殿下」
「どうでもよくないよ」
と彼は繰り返した。
「正しく働いた人間が、都合よく悪者にされて終わるのは嫌だ」
部屋の空気が少しだけ張る。
それは怒鳴るような言い方ではない。
でも、彼女の逃げ道だけは塞ぐ言葉だった。
「君が領地を残すために切ったものを、王都は性格の問題にした」
「都合の悪い断りを、全部“冷たい女の強情”にまとめた」
「そんなの、名簿の歪みと同じだろ」
フィアナの目が、わずかに揺れる。
レオンは続けた。
「死んだ者の名が残って、生きてる子どもがどこにも載らない」
「払った家にもう一度請求が行く」
「今回の名簿って、そういう間違いを直す話だった」
「なら君の名前も同じだ」
その言葉は、彼自身にも少し意外なくらい真っ直ぐ出た。
「間違ったまま残されてるなら、直したい」
「人としてじゃなく、都合のいい記号みたいに扱われたなら、そこも戻したい」
「俺は、そういうのが一番嫌いなんだ」
フィアナは、何も言わなかった。
暖炉の火が小さく揺れる。
窓の外では、夜の風が石壁を擦っていた。
やがて彼女は、ほんの少しだけ視線を落として言う。
「……優しいのですね」
「違う」
レオンはすぐに首を振る。
「たぶん、性分が悪いだけだ」
「真面目にやった人間が損したまま終わるのを見ると、腹が立つ」
その返しに、フィアナの口元がほんの少しだけ動いた。
笑ったというほどでもない。
でも、今までよりは柔らかい変化だった。
「それでも」
と彼女は言う。
「私のために怒ってくださる方は、あまりいませんでした」
その一言は小さかった。
けれど、この章でいちばん深いところから出てきた声に聞こえた。
レオンは机の上の紙束へ手を置く。
「じゃあ、今からはいる」
フィアナは息を止めたみたいに静かになった。
「君がどうでもいいって言っても、こっちはそうしない」
「領地の名簿も直す」
「徴税の歪みも潰す」
「それと同じで、君に貼られた札も、そのままにはしない」
言い切ってから、少し照れくさくなる。
でも引っ込める気はなかった。
フィアナはしばらく何も言わずにいた。
薄灰の瞳が、レオンの顔をまっすぐ見ている。
そこにあるのは、恋だとか甘さだとか、そういう分かりやすいものではない。
もっと静かで、重いものだった。
ようやく、同じ机に全部を置けるかもしれない。
そういう種類の信頼に近い。
「……困ります」
と彼女が言った。
「何が」
「そういうことを、そんな顔で言われると」
彼女は少しだけ目を逸らす。
「私の方が、今さら引けなくなります」
「引くつもりだったのか」
「少しは」
とフィアナは答えた。
「少なくとも、この話はもう終わったものとして扱うつもりでした」
「終わってないだろ」
「ええ」
彼女は小さく頷く。
「どうやら、終わらせてはもらえないようです」
その言い方に、今度こそレオンは少しだけ笑った。
フィアナの方も、本当にわずかだが目元の緊張を緩める。
仕事以上のもの、と言えば大げさかもしれない。
でも、もうただの利害一致ではなかった。
相手の抱えていた重さを知って、その上で隣へ立つと決める。
そういう段階へ、二人は確かに進んでいた。
その時、扉が二度、控えめに叩かれた。
空気が少し変わる。
「何だ」
とレオンが返すと、外からセリスの声がした。
「殿下。夜分失礼いたします」
「王都から急使です」
レオンとフィアナの視線が、同時に扉へ向く。
王都。
この間の悪さは、たぶん偶然ではない。
フィアナの表情から、さっきまでの柔らかさがすっと引いた。
だがもう、最初の頃のような一人きりの硬さではない。
レオンは扉の方を見たまま言う。
「入ってくれ」
次に来るのは、きっとただの挨拶ではない。
そして扉の向こうには、赤い封蝋の押された細長い書状が待っていた。




