第91話 嫌われ役
「フェルドには、当時もう余裕がありませんでした」
フィアナはゆっくりと言った。
「収穫は落ち、道は荒れ、王都への支払いも遅れ始めていました」
「父は病床で、家臣の一部は保身に走り、残りは口をつぐむ」
「ですから、決める役だけが先に回ってきました」
彼女の声は平らだ。
平らだからこそ、その頃どれだけ感情を切っていたのかが分かった。
「一つ目は補給です」
「北境へ送る分の追加要請がありました」
レオンは黙って聞く。
北境。
国境沿いの砦や兵への補給だろう。
断りにくい。
王国の防衛を盾にされれば、なおさらだ。
「王都は“少しだけなら出せるだろう”と言いました」
「ですが少しではありませんでした」
「その年のフェルドで“少し”を出せば、村の最後の蓄えが削れます」
「断ったのか」
「断りました」
フィアナははっきり言う。
「国境が大事でも、まず自領の民が冬を越えられなければ意味がありませんから」
正しい。
正しいが、王都で好かれる断り方ではない。
「二つ目は借り入れです」
彼女は続けた。
「王都商会からの短期資金の返済を、前倒しで求められました」
「応じれば、表面上の心証は良くなったでしょう」
「ですが、応じたその月に配給が止まります」
「だから先送りした」
「はい」
「延納を求めました」
「利息は積まれ、書面にも弱い立場が残ります」
「それでも、今の銀貨を渡すよりましでした」
目先の評判より、領地の冬。
それを選び続けたのだ。
「三つ目は婚約の条件でした」
フィアナは少しだけ視線を逸らした。
「王都側は、ベルクライン家が困窮しているなら、なおさら態度を柔らかくしろと言いました」
「領地の実務からも引けと」
「将来の嫁ぎ先に口を出させないためです」
「……露骨だな」
「ええ」
と彼女は言う。
「露骨でした」
部屋が静かになる。
レオンの頭の中で、今まで見てきたフィアナの姿が一つずつ重なった。
門外に仮設区画を作り、恨まれても順番を守る女。
鍋場で足りないと先に言い、鍋を倒すなと言える女。
名簿の歪みを見て、自分が守ってきた制度の限界まで引き受ける女。
その型は、最初から同じだったのだ。
好かれるために動かない。
崩さないために動く。
そして、その役割だけを押しつけられてきた。
「皆、私が切ったところだけ見ます」
フィアナは低く言った。
「補給を断った」
「返済を先送りした」
「婚約先に従わなかった」
「社交の席で愛想がない」
その並びだけを見れば、たしかに冷たい女に見える。
「でも」
彼女は少しだけ言葉を止めた。
「誰も、その時フェルドに何が残っていたかは見ませんでした」
暖炉の火が、また小さく鳴った。
「断らなければ、村がいくつ落ちたのか」
「返済を優先すれば、何人分の冬支度が消えたのか」
「私が席で頷いた後、領地で誰が死ぬのか」
そこまで考える者は、王都にほとんどいなかったのだろう。
いや、いたとしても。
見ない方が都合がよかったのだ。
「だから私は」
フィアナは言った。
「好かれる方を捨てました」
その言い方に、レオンは胸の奥が少し痛んだ。
捨てた、ではない。
捨てさせられたに近い。
でも彼女はきっと、そうは言わない。
被害者の言葉で自分を守る人ではないからだ。
「皆の前で悪い顔をする人間が要るなら、それでいいと思いました」
「父はもう動けず、領地は持たず、家臣も割れていた」
「でしたら、私が引き受けるしかありません」
レオンは机の上の紙を見る。
王都の噂。
社交欄。
書簡の写し。
あれは自然に広がった悪評ではない。
誰かが“ちょうどいい顔”を見つけて、そこへ札を貼ったのだ。
冷酷な令嬢。
強情な婚約者。
扱いづらい辺境の娘。
本当は、ただ一人で止血していただけなのに。
「……嫌われたんじゃないな」
とレオンは小さく言った。
フィアナが顔を上げる。
「何がですか」
「君は、嫌われたんじゃない」
レオンは彼女を見た。
「嫌われる役を押しつけられてた」
その言葉に、フィアナはすぐには返さなかった。
薄灰の瞳がわずかに揺れる。
否定するでも、受け入れるでもない。
ただ、それを自分の言葉に入れていいのか、測っているようだった。
やがて彼女は、少しだけ唇を結んで言う。
「……大差ありません」
「ある」
とレオンは返した。
彼女は小さく首を振った。
だがその仕草は、いつものように強くはなかった。
「結果は同じです」
「王都ではそう見られ、婚約も冷え、社交でも浮きました」
「今さら理由を足したところで、過去は変わりません」
変わらない。
その言い方が、妙に静かだった。
たぶん彼女は、本気でそう思っている。
思い込んでいないと、もう前へ進めなかったのだろう。
でも、それをそのまま飲み込む気には、レオンはなれなかった。




