第89話 王都の噂
夜の実務室は、昼より静かで、そのぶん紙の擦れる音がよく響いた。
新しい名簿の聞き取りは、まだ始まったばかりだ。
それでも机の上には、もう何種類もの束が積まれている。
新表。
旧名簿。
徴税控え。
村からの走り書き。
炊き出しの受領札。
レオンは肩を回しながら、その山の端を揃えた。
「これ、どこに置く」
と彼が聞くと、セリスが顔も上げずに答える。
「古い王都便の束と一緒で結構です」
「フィアナ様宛ての写しも混ざっていますので」
「王都便?」
「はい。以前の婚約整理や、辺境伯家への照会文書です」
「今すぐ必要ではありませんが、散らすと後で面倒です」
面倒。
その言い方で、大抵のものは説明がつく。
レオンは言われた通り、部屋の隅に積まれていた古い文書箱を引き寄せた。
中には褪せた封筒、封蝋の割れた書簡、薄い紙束がいくつも入っている。
その一つが、妙に目に留まった。
紙質が軽い。
書簡ではなく、王都で回る読み物の写しらしい。
見出しだけが大きく、本文は短い。
貴族社交欄、とある。
「……こんなのまで取ってたのか」
「取っていたというより、送られてきたものです」
セリスが答えた。
「善意の忠告、という形で」
善意の忠告。
嫌な響きだった。
レオンは一枚を開いた。
『ベルクライン令嬢、またも婚約調整の席で強情を通す』
『辺境の事情を盾に、王都の配慮を退けた模様』
別の紙には、こうある。
『病床の父を隠れ蓑に、若き令嬢が実権を握る』
『冷酷との評判、ついに縁談へ影』
どれも、言い切り方が似ていた。
事実そのものより、印象が先に立つ書き方だ。
「下品ですね」
とセリスが淡々と言う。
「君、もっと嫌そうに言えないのか」
「十分嫌です」
「ただ、こういうものは感情で汚いと言うより、流し方を見る方が価値があります」
それはそうだ。
レオンはもう数枚めくった。
時期が近い。
並びも変だ。
最初は婚約話の小さな記事。
その次に、社交の席での無礼。
さらに、辺境伯家の資金難。
最後には、冷たい令嬢、協調性のない女、王都を軽んじる危うい娘。
一つ一つは弱い。
でも重ねれば、顔になる。
「自然発生じゃないな」
セリスがようやく顔を上げた。
「ええ」
「増え方が急だ」
レオンは紙を並べる。
「しかも最初の火が立った後、似た言い回しで広がってる」
「誰かが意図的に流した時の形だ」
セリスは少しだけ目を細めた。
「お気づきになりましたか」
「前世でも見た」
とレオンは言った。
「人を直接殴らず、先に“そういう人間らしい”って空気を作るやり方」
紙の上で印象を先に固定する。
そうすれば、後から何を言っても、全部その枠に押し込められる。
強情だから断った。
冷たいから切った。
傲慢だから譲らない。
事情は全部、後ろへ回る。
レオンはさらに日付を見る。
あるところから急に密度が増していた。
「……この辺だな」
「どこですか」
「一年半前から二年前」
「この時期だけ、明らかに多い」
セリスも横へ来て、紙を追った。
「辺境伯閣下の体調が崩れ始めた頃ですね」
それで繋がった。
父の代わりに、フィアナが前へ出る。
出たところへ、噂が増える。
偶然にしては、出来すぎていた。
「他にあるか」
とレオンは聞いた。
セリスは少しだけ迷ってから、別の束を差し出した。
「こちらは正式文書の写しです」
「婚約先候補の家、財務院筋、補給局筋」
「表向きは別件ですが、時期は重なっています」
レオンはざっと目を通した。
追加拠出の要請。
返済期限の繰り上げ打診。
馬の供出相談。
婚約条件の再調整。
全部、辺境が余裕を失う方向の話だった。
しかも、断れば角が立つ。
受ければ領地が削れる。
「……嫌な作りだな」
「王都は、そういう“断る方が悪く見える話”を好みます」
とセリスは言う。
「特に、若い女性が前に出ているならなおさら」
レオンは手元の紙を見つめた。
フィアナは、ずっと領地の現実を見ていた。
この冬の鍋場でも、名簿でも、それは変わらない。
なら、その前から同じだったのだろう。
王都で彼女が嫌われたのは、性格が悪かったからじゃない。
多分、断ったからだ。
切ったからだ。
誰かにとって都合のいい流れへ乗らなかったからだ。
でもそこまで考えたところで、レオンは指を止めた。
推測だけでは足りない。
「……本人に聞くしかないか」
セリスは何も言わなかった。
ただ、その沈黙は「そうですね」に近かった。
暖炉の火が低く鳴る。
実務室の扉の向こうでは、まだ誰かが紙を運んでいる気配がした。
領地の冬は待ってくれない。
それでも今、別の意味で待てないことがある。
レオンは紙束を揃えて立ち上がった。
王都で何があったのか。
フィアナが何を断って、何を背負わされたのか。
それを知らないまま、同じ机の端に立っている顔はしたくなかった。
そして廊下へ出たところで、ちょうど向こうからフィアナが来た。
薄灰の瞳が、レオンの手元の紙を見て、ほんのわずかに止まる。
その一瞬だけで、彼には分かった。
やはり、この束は。
彼女にとって、まだ終わっていない傷の側にある。




